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2025年6月20日 (金)

智積院 金堂と大師堂

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

東山七条(東大路通と七条通のT字路)に智積院の「総門」があります(TOP)。東福門院(徳川和子)の旧殿から移築されたと伝わっています。そこか少し南にいったところに参道の入口があります(下の写真)。

以下では、江戸時代までの智積院の歴史を振り返りながら境内の建物や史跡を見て歩きます。

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真言宗の宗祖・弘法大師空海の没後からおよそ300年の1130年、興教大師覚鑁(かくばん)が高野山に大伝法院と密厳院を建て、荒廃した高野山を復興、真言宗教学の振興に努めて、中興の祖となりました。「境内図」

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覚鑁(1095-1144)は35歳で古式な真言宗の伝法の全てを習得し、空海以来の才と称されました。1134年には金剛峯寺座主となり、事実上高野山の主導権を制して真言宗の建て直しを図りました。

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しかし、この強硬策に反発した上下の僧派閥は覚鑁と激しく対立、1140年ついに覚鑁の自所であった金剛峯寺境内の密厳院を急襲してこれを焼き払いました。(大きな桔梗の花が咲いていました。)

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この時の騒動が伝説となって伝わっています。密厳院の不動堂にいた覚鑁の命を狙って僧徒が不動堂に乱入してきましたが、一体しかないはずの本尊不動明王が須弥壇上に二体も並んでいました。(金堂への参道)

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僧徒はどちらかが覚鑁が変化したものであろうと考え、錐を刺して血が出た方が覚鑁であるとして二つの不動明王の膝に錐を刺しました。すると両方の不動明王の膝から血が流れ出てきたので、覚鑁は不動明王に守られていると考えた僧徒は 、

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恐れおののいて不動堂から出て行き、覚鑁は辛くも一命を取り留めたといいます。有名な「きりもみ不動」伝説で、これら一連の騒動を「錐もみの乱」といわれています。(参道の左にある拝観領域の「名勝庭園・講堂」、今回は訪れていません。)

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逃げ延びた覚鑁は修行の場を高野山から同じ和歌山県の根来山(ねごろさん)へ移し、ここを根本道場としました。下は後で出てくる、智積院再興の功績者「玄宥(げんゆう)僧正の像」。

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鎌倉時代の1288年、頼瑜(らいゆ)僧正が大伝法院と密厳院を高野山から根来山へ移しました。これにより根来山は学問の面で栄え、最盛時には2900もの坊舎(僧侶の宿舎)と、約6000人の学僧を擁するようになりました。「戦没英霊供養之塔」、左は「仏足石」。

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智積院は、その数多く建てられた塔頭寺院のなかの学頭寺院でした。学頭寺院とは、僧侶に学問を授ける最高指導者(今の学校長)が所属する寺院です。「金堂」は現在の智積院の中心的な建物で、本尊の大日如来像を祀ります。

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金堂は弘法大師誕生千二百年の記念事業として昭和50年(1975)に建設。以前の金堂は、1705年に桂昌院(徳川5代将軍綱吉の生母)より与えられた金千両を基に学侶からの寄付金を資金として建造、明治15年(1882)に火災により焼失しました。

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戦国時代になると、根来山には土豪の子弟で寺務に関わる行人(修行者)を多く抱え、次第に武力を蓄えます(根来衆)。秀吉と織田信雄・家康が戦った小牧・長久手の戦いでは根来衆は家康側に加担しました。(金堂の左手に行きます。)

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その後家康と和睦した秀吉は、1585年に報復として10万の兵で根来山を攻め、その堂塔のほとんどが灰燼に帰しました。(金堂から北の大師堂に向かう途中にアジサイが咲いていました。)

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その時の智積院の住職・玄宥(げんゆう)僧正は、高野山に難を逃れ、秀吉没後の1598年に京都東山で智積院の再興を始めました。のぼりに「南無大師遍照金剛」とあるのは、弘法大師空海に帰依するという意味だそうです。

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関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1601年豊国神社境内の坊舎と土地を玄宥僧正に与え、名実ともに智積院が再興されました。

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さらに、1615年に大坂夏の陣で豊臣氏が滅び、隣接した祥雲寺の寺地が智積院に与えられその規模が拡大しました。祥雲寺は秀吉の最初の息子・鶴松の冥福を祈って建立された寺院です。「弘法大師像」

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「稚児大師像」 幼少期の空海を表現した像で、昭和59年(1984)の智山保育連合会の奉納です。真言宗智山派寺院関係の幼稚園、保育園、児童養護施設などが加盟する連合会で、左の石碑には多数の施設の名前が刻んであります。

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「大師堂」 弘法大師空海の尊像を安置しています。大師堂は江戸浅草・宝持院の真融法印の寄付金三百両を基金に、役寺の愛宕円福寺の胎通法印と真福寺の純雅法印が尽力して費用を工面しました。法印とは高位の僧位(法印大和尚位)のことです。

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落慶したのは胎通が智積院第24世に就任中の1789年です。扁額は「遍照金剛殿」、遍照金剛は空海の灌頂名であり、大日如来の別名でもあります。このあと、更に石段を上り高台のお堂やアジサイを見にいきました(最後の写真)。

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コメント

こんばんは。ゆーしょーです。
5枚目は桔梗ですよね。
桔梗は秋の花と思ってましたが
早くも咲いていたのですね。
ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2025年6月21日 (土) 01:50

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