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2025年6月14日 (土)

東山聖天・香雪院と歴代の尼僧たち

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日の渋谷(しぶたに)街道(渋谷通)の三嶋神社の向かいの道に香雪院があります。手前は京都女子大学K校舎学生会館、向う(南)には京都女子中学校・高等学校、向いには京都女子大学付属小学校があります。

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「香雪院」は、妙法院の塔頭の尼寺で東山聖天ともよばます。妙法院は豊臣秀吉が造営した天台宗の門跡寺院で、東山七条の智積院の北にあります。山門を入った右に「鎮守社」があります。

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香雪院は江戸時代の寛保年間(1741-1743)、霊元天皇の第18皇子・妙法院23世・尭恭(ぎょうきょう)法親王(?-1764)により創建されました。(鎮守社の横に石仏が並んでいます。)

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この地が妙法院の丑寅(北東)の鬼門の方角に当たることから、尭恭法親王の持仏の聖天像を安置するためのお堂を建てたのが始まりです。また、当時は妙法院の所有だった積翠園の東隣でもあります。(庫裏の玄関、八坂神社の蘇民将来のチマキがありました。)

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この像は、妙法院第2世・慈覚大師が中国より持ち帰った双身聖天像(歓喜天)と伝えられ、続く妙法院24世・真仁法親王、25世・教仁法親王が聖天像の供養をおこないました。(書院?の玄関)

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その後明治時代になると門跡寺院の制度は廃止となり、法親王の入山門主は禁じられました。塔頭の香雪院も衰退を余儀なくされました。下は玄関にあった置物。

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明治10年(1877)ごろ、中島良湛尼が妙法院塔頭の尼寺として香雪院を再建しました。7歳で良湛尼の徒弟となった中島秀湛尼(1880-1937)は、翌年得度、19歳の時に良湛尼が亡くなり(再建された香雪院の)2世住職となりました。

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2世・秀湛は就任後、本堂を修理、書院を改築、梵鐘を鋳造して鐘楼堂を新築するなど堂宇の再建に尽力、寺は興隆し、57歳で亡くなりました。中門の左手前、右に「再建碑」(中島良湛)、左に「中興碑」(中島秀湛)があります。

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昭和15年(1940)に3世・中島湛海尼(1915-2006)が就任しました。湛海は大正4年(1915)栃木に生まれ父は財界人でしたが、生まれてすぐに母を亡くして祖母に育てられ、7歳で香雪院に入り2世・中島秀湛の養女となっていました。「手水舎」

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11歳で出家、京都女子高等学校を卒業後も修行を続け、26歳のときに3世として香雪院を継ぎました。(鳥居の扁額には歓喜天と書かれています。)

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ところが、昭和20年(1945)1月26日午後11時過ぎ、米軍の「馬町空襲」により本堂や庫裏が大破してしまいました。(歓喜天は象頭人身の姿をしているそうです。)

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京都府の記録によると、この空襲の死者34人、負傷者56人、全焼・全壊31戸、半壊112戸でした。馬町以降、京都は4回にわたり空襲を受けました。「歓喜稲荷社」

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当時の修道国民学校(元東山小学校)や京都女子専門学校(現京都女子大)なども大きな被害を受けました。 3世・湛海は馬町空襲の被災者を3か月にわたって救護したといわれています。

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その後、湛海は香雪院を再興、行願寺(革堂)住職を兼務しました。 庭には様々な草木が植えられていました。

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湛海は女性初の権僧正や権大僧正となり、昭和63年(1988)には女性で初めて天台宗の最高位・大僧正に就任しました。(向うは庫裏で、手前に献灯碑、その向うに七重石塔があります。)

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昭和63年(1988)中島光海尼が第4世に就任しました。湛海は平成18年(2006)に亡くなり、享年91、喪主は中島光海尼でした。 「弁天堂」、天井は藤や杜若が描かれた花天井になっています。)

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湛海が亡くなったときは新聞各紙に報道されました。(弁天堂の左右に「弁才十五童子 出自と由来」があり、十五童子の手書きの絵と説明があります。)

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4世の光海もまた革堂の住持を兼務、そちらでお勤めすることが多いようです。境内の奥に見事な竜の透かし彫りのある鐘楼があります。梵鐘は昭和24年(1949)再鋳。

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正面が「本堂」(歓喜天堂)で、本尊の秘仏・双身聖天像を祀っています。除病除厄、富貴栄達、恋愛成就、夫婦円満、除災加護のご利益があるとされます。

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本堂にはたくさんの種類の御朱印が飾ってあり、見事な花の絵が描かれたものもあります。革堂の副住職の「気まぐれ御朱印」は有名で、同じ方が描いたのかも知れません。

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ちなみに革堂(行願寺)は西国三十三所の唯一の尼寺(第19番)です。 女性が猫を背中にしょって庭仕事をしていました。住職が兼務している革堂も「猫のいる寺」として知られています。

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香雪院は尼寺三十六所霊場の11番目の札所になっています。(こちらも鎮守社だそうです。)

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コメント

こんばんは。ゆーしょーです。
狛犬に代わる狛象ですね。
調べましたら、ネズミから
ライオンに至るほとんどの
動物の像があるそうです。

投稿: ゆーしょー | 2025年6月14日 (土) 22:44

ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2025年6月15日 (日) 01:40

★ゆーしょーさん こんばんは♪
私の好きなネコが狛猫になったのは見たことがありません。猫が十二支に入っていないのも不満です。

投稿: りせ | 2025年6月16日 (月) 00:58

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