三十三間堂 国宝本堂と東庭
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先日、久しぶりに三十三間堂に行ってきました。TOPは京都国立博物館前の向かいにある入口、奥に京都タワーが見えています。以下では三十三間堂の歴史を振り返りながら、境内を散策します。
「三十三間堂」は正式には「蓮華王院」という天台宗妙法院門跡の場外仏堂です。蓮華王とは本尊の千手観世音菩薩を意味します。下は拝観入口のある「普門閣」。
この地は、平安時代中期の永延2年(988年)右大臣の藤原為光が邸宅「法住寺」を建てた場所です。(拝観受付を過ぎると本堂があり、最初にその前の東庭の散策路を歩きます。)
平安時代末期の久寿2年(1155)、即位した後白河天皇は、翌年この地に御所「法住寺殿」を造営しました。後白河天皇はわずか3年で二条天皇に位を譲って以後、上皇として院政をおこないました。石碑「此附近 法住寺殿址」
長寛2年(1164)後白河上皇の発願により、平清盛が御所の南殿の北西に鎮守寺の仏堂・蓮華王院を建造しました。「北門」、右に回廊がつづき、その前に東庭と散策路があります。
この時期は後白河院政派と二条天皇親政派の対立が激化して、院政を停止された後白河上皇が信仰にのめりこんだ時期でした。後白河上皇は平清盛の助力もあって勢力を取り戻し、皇子の憲仁(のりひと)親王の立太子を実現。
法住寺殿は、儀式用の南殿と憲仁親王の住む七条上御所、後白河院・滋子(清盛の娘)の住む七条下御所などがある北殿に分かれ、政治の中枢になりました。
仁安4年(1169)後白河上皇は、園城寺前大僧正・正覚を戒師として出家して法皇となります。後白河法皇は政権を強化・安定するために、高倉天皇(即位した憲仁親王)と清盛の娘・徳子を婚姻させました。
しかしながら、清盛の力が増大して後白河法皇との間に溝が生じ、治承3年(1179)に清盛のクーデター(治承三年の政変)によって院政を停止され、住み慣れた法住寺殿を追われ洛南の鳥羽殿に幽閉されました。
この東庭は池泉回遊式庭園で、昭和36年(1961)の後白河法皇770回忌記念事業の際に、「昭和の小堀遠州」と称えられた作庭家・中根金作氏により造園されました。その後も中根庭園研究所によって整備がすすみ、令和3年(2021)に保存工事が完了しました。
治承5年(1181)に病気の高倉上皇が没し、翌月には清盛も亡くなりました。安徳天皇はまだ幼児だったので、後白河法皇が院政に復帰するしか道がありませんでした。「写経奉納塔」
清盛は死に際に、三男で後継者の平宗盛の後ろ盾を後白河法皇に申し入れましたが、院政を再開した法皇は平家の追放を決断します。「東大門」や回廊も後白河法皇770回忌の記念事業で建造されました。
「夜泣泉」 本堂創建の翌年6月7日、堂僧が夢のお告げにより発見したという霊泉で、『古今著聞集』には「いつも冷たく美味く汲んでも尽きず、汲まぬ時は余らざる不思議な泉」と記されているそうです。
夜のしじまに湧き出す音がすすり泣きに似ることから夜泣泉といわれるようになり、いつからか地蔵尊が祀られました。その「前掛け」を持ちかえり子供の枕の下に敷けば夜泣きが治癒するとの信仰がうまれました。前掛けに子供の名前を浄書して一週間祈願のあと、郵送にて届けてくれるそうです。
元暦2年(1185)義経は壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼし、その功労として後白河法皇は頼朝を正四位下から従二位に叙しました。さらに、頼朝は軍勢を京都におくって法皇にせまり、
諸国に守護を、荘園や公領には地頭を任命する権利や1段当り5升の兵粮米を徴収する権利、さらに諸国の国衙の実権を握る在庁官人を支配する権利を獲得しました。最近ではこの年を鎌倉幕府の成立としているようです。
元久元年(1204)土御門天皇が後白河法皇十三回忌を行った際、法然は天皇の特請によって声楽に秀でた僧侶を集めて「六時礼賛」という法要を行い、南無阿弥陀仏と書写して参集した人々に分け与えたといいます。下はその事跡を記念する鎌倉時代の石碑。
三十三間堂は建長元年(1249)、市中からの火災により焼失し、鎌倉時代の文永3年(1266)に再建されたのが現存の建物です。当時は朱塗りの外装で、堂内は花や雲文様の極彩色で飾られたといい、今もわずかにその名残を留めています。
その後の幕府も三十三間堂を手厚く護持、室町時代の足利第六代将軍義教により本格的な修復がおこなわれました。彼は仏門に入って、比叡山・天台座主を勤め、京洛の禅寺に修理の寄付勧進を命じて、
三十三間堂の屋根瓦の葺き替えをはじめ、中尊・千体仏など内外両面の整備をおこないました。池の畔に「後白河法皇八百年聖忌記念」の碑があります。
安土桃山時代、天下を統一した豊臣秀吉は、当時交通の要所だったこの地に目を向け、後白河法皇や清盛の栄華にあやかろうと思い立ちます。その権勢を天下に誇示するため、奈良大仏を模した大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営し、
三十三間堂や後白河法皇の御陵もその境内に取り込んで土塀を築きました。今も、その遺構として下の写真の南大門(後で訪れました)と右手の塀が残っています。塀の軒平瓦に太閤桐の文様が用いられていることから「太閤塀」と呼ばれています。
お堂の修理も千体仏をはじめとして念入りに遂行され、その意志を継いだ秀頼の代まで続きました。大仏殿は、文禄4年(1595)に完成し、千人の僧侶により落慶供養されたといいます。
境内の南西隅にある「久勢稲荷大明神」 所願成就、如意満足と書いてあります。このあと、通し矢が行われた三十三間堂の西側と、建物の中に入りました。
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コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
三十三間堂と言えば通し矢ですよね。
毎年テレビで見ています。
来年は1月11日とか。
三十三間堂へは行ったことがないのです。
ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2025年6月24日 (火) 00:05
★ゆーしょーさん こんばんは♪
遠くの県の方は修学旅行で三十三間堂にくることが多いようです。
投稿: りせ | 2025年7月 2日 (水) 01:10