佛光寺 2025
過去の全記事 2006年1月27日から毎日更新しています。
先日烏丸から高辻通を東に歩いていく途中、佛光寺に立ち寄りました。「佛光寺」は真宗佛光寺派の本山で山号は渋谷山です。TOPは高辻通に面する通用門で山門は東の高倉通に面しています。
建永2年(1207)法然上人やその弟子たちが迫害され、親鸞聖人もその一環として越後に流罪されました。赦免された翌年の建暦2年(1212)に京都に帰り、山科に草庵を結びました。「阿弥陀堂」
この草庵が佛光寺のはじまりと伝えられています。当初は真宗開闢の根本道場を意味して「興隆正法寺」と名付けられました。「阿弥陀堂」は佛光寺の本堂で、間口15.6m、奥行21.25m。単層入母屋造本瓦葺で明治37年(1904)の再建です。
親鸞聖人の頃は真宗の教えは関東を中心に広がっていましたが、第7世了源上人になって拠点を旧仏教の盛んな京都に置き、光明本尊・絵系図・交名帳(これらの説明は後ほど)を用いて西日本一帯の布教活動に力を入れました。
了源上人の布教は順調に広がり、元応2年(1320)には、拠点を山科から今比叡汁谷(現・京都国立博物館あたり)に移しました。阿弥陀堂に上がりました。
阿弥陀堂の内陣須弥壇上には本尊の阿弥陀如来立像、両脇壇に聖徳太子像と法然上人坐像、両余間に竜樹・天親・以下六高僧の坐像と後醍醐天皇の位牌を安置しています。
建武2年(1335)12月8日、上人は布教の途上、伊賀(三重)の七里峠において賊徒に襲われ生涯を閉じることになりました。(須弥壇中央に安置されているのは本尊の御前立だと思われます。)
死に臨んで自己をあやめんとする者に対して「この者を罪することなかれ、回心の気あり、よく後生を教ゆべし」と諭したという逸話が残っています。時に上人42歳でした。「須弥壇の装飾」
了源上人は、わが国で初めて真宗教団を組織して布教につとめ、佛光寺のみならず真宗教団の中興の祖ともいわれます。
その頃、後醍醐天皇(在位1336-1351)から勅願により「阿弥陀佛光寺」略して佛光寺の寺号を賜ったと伝えられています。これにも逸話があります。(渡り廊下を通って大師堂に行きます。)
佛光寺が繁盛するにしたがってそれを妬む者が現れ、ある夜本尊や宝物などを盗み出して竹やぶに投げ捨てました。(大師堂は既に閉まっていてこちらはその東側で、右は南書院、その奥に白書院があります。)
その夜、後醍醐天皇が夢枕で東南の方向から一筋の光が差し込むのをご覧になり、ただちに人を遣わせられたところ、阿弥陀如来の木像が出てきました。これが寺号の由来とされています。「大師堂」
「大師堂(御影堂)」 26.5m、奥行33.1m、それに間口10.2mの向拝をつけた単層入母屋造本瓦葺の巨大な木造建築で、内部須弥壇上に親鸞聖人の坐像、両脇壇に中興了源上人の坐像と前住上人の絵像とを安置し、明治17年(1884)再建。
了源上人の没後、第8世を継いだ長子の源鸞上人は在職13年で病没、やむなく了源上人のお裏方(奥様)の了明尼が第9世の法灯を継ぐことになりました。「真宗佛光寺派 宗務所(佛光寺門信徒研修会館)」
南北朝時代の頃は女性差別が当たり前で、仏教でも五障三従(ごしょうさんしょう)といい、女性は仏教修行や仏道において達成しがたい5つの障害があり、女性が男性に従うべき3つの規範(従)が示されていました。「勅使門」
この時代に女性が一山の門主の地位に就くということは、革命的な出来事でした。以後、佛光寺は性別による差別のない開かれた教団として、多くの女性が教団護持に携わってきました。「鐘楼」
「和合所」 元は僧たちの寝泊まりに使われていました。現在はD&DEPARTMENT株式会社に貸し出され、「D&DEPARTMENT KYOTO」というショップが営業しています。
幕末の慶応3年(1867)第25世真達上人の亡後、蛤御門の変による元治の兵火で佛光寺は焼失してしましました。「阿弥陀堂門」
その後、第27世を継承した真意尼は灰燼に帰した本山を背負って念仏一筋に法灯を守り抜き、現在の本山両堂をはじめとする諸堂を再建しました。「御影堂門」から一旦外に出ます。
ところで、上述の了源上人が京都での布教に用いた3点セットのうち、「光明本尊」は南北朝時代に法橋良円が畳一枚ほどの絹布に描いた本尊図で、後ろより光明が輝いています。「御影堂門」 切妻四脚門で、扉や脇、腰の各所を彫刻で装飾しています。
光明本尊は親鸞没後に描かれれたものが佛光寺派末寺に多く伝わっています。特に滋賀県西通寺のものが最高の作品といわれます。(境内の東は南北の「高倉通」です。)
「絵系図」(重文)は道場に所属する門徒の肖像を描いて名簿代わりにして師弟関係が系図として描かれています。了源上人が本願寺存覚の指導を受けて製作したのが始まりと考えられ、佛光寺には最も原初的な絵系図が寺宝として伝わっています。「台所門」
再び境内に戻って阿弥陀堂門と御影堂門の間にある「お茶所」、元は檀家が集会所として使用していました。現在は毎朝7時30分から法話の会があるほか、昼はD&DEPARTMENT株式会社に貸し出され、「dd食堂京都」として営業しています。
3点セットの最後の交名帳(きょうみょうちょう)は(絵系図と同様に)門徒の系譜を記したものです。現存するものはほとんどありませんが、佛光寺には鎌倉時代の紙本墨書「一流相承系図」(重文、長性院と共有)が伝わっています。
上はお茶所の入口で、一休みして珈琲とぜんざいを頂きました。このあと、佛光寺の周囲に点在する末寺を見て回りました。
最後の写真はお茶所の中から。お帰りの際には、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。
★こちらを是非よろしく→ ブログ村→
-------------------------------------------------------------------
| 固定リンク
コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
立派なお寺ですね。
内部も撮影可なのですね。
美味しそうなぜんざい、そして
コーヒーですね。
コーヒーは一日2杯。生協で
買ったぜんざいは週に1~2回
食べています。ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2025年2月 6日 (木) 00:05
★ゆーしょーさん こんばんは♪
私もぜんざいは大好物で、いつも買い置きがあります。
投稿: りせ | 2025年2月 9日 (日) 00:13