東本願寺 本願寺と真宗大谷派の歴史
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寒さも和らいだので昨日は宮御殿と桜下亭が特別公開されている東本願寺に行ってきました。今日は東本願寺(真宗大谷派)の歴史を振り返ります。昨日までの佛光寺の記事では、そのほとんどの寺を引き連れて発展した本願寺でしたが、
やがて戦国の戦いに巻き込まれて東西に分裂。徳川家康に庇護された東本願寺も、近年には貫主の大谷家やいくつかの宗派の離脱など、時代の荒波にさらされます。「御影堂(ごえいどう)門」、 今日は建物の説明はありません。
「真宗本廟」は真宗大谷派の本山で東本願寺とも呼ばれます。宗祖・親鸞聖人(1173-1262)の門弟らが、その遺骨を大谷(京都市東山山麓)から吉水(京都市円山公園付近)の北に移し、廟堂を建て宗祖の影像を安置したことが始まりです。
親鸞聖人の娘覚信尼は門弟から廟堂をあずかり、「留守職(るすしき)」として真宗本廟の給仕を務めました。以来、真宗本廟は親鸞の開顕した浄土真宗の教えを学ぶ根本道場として、親鸞聖人を崇慕する門弟たちにより守られてきました。「御影堂」
第3代覚如(かくにょ)上人(1270-1351)の頃、真宗本廟は「本願寺」を名のるようになり、やがて御真影を安置する廟堂(現在の御影堂)と、寺院としての本尊を安置する本堂(現在の阿弥陀堂)が並存するようになりました。「参拝接待所」
戦国時代、第8代蓮如(れんにょ)上人(1415-1499)は、宗祖・親鸞聖人の教えを確かめ直しつつ、生涯をかけて民衆に教えを広め、本願寺教団をつくりあげました。このことから、蓮如上人は「真宗再興の上人(中興の祖)」と仰がれています。
東山にあった本願寺は比叡山との関係で一時退転し、蓮如上人の北陸布教の時代を経て山科に再興。その後、大坂(石山、現在の大阪市中央区)へと移転しました。
しかし、第11代顕如上人(1543-1592)の時代、10年におよぶ織田信長との戦い(石山合戦)のあと和睦して大坂を退去。この際、顕如上人の長男教如(きょうにょ)上人(1558-1614)は意見が対立して石山本願寺に籠城、義絶(離縁)されました。
天正10年(1582)義絶は解かれ、天正13年(1585)本願寺は豊臣秀吉により大坂天満に再興。さらに天正19年(1591)京都堀川七条に移転しました。これが、現在の西本願寺(浄土真宗本願寺派の本山)です。 (御影堂に上がりました)
父・顕如上人の没後、一度は教如上人が本願寺を継ぐも、秀吉より隠居させられて弟(三男)の准如(じゅんにょ)上人が後を継ぎました。これは、母・如春尼が秀吉に働きかけたからだといわれています。 向うは「阿弥陀堂」。
その後も教如上人は活動を続けました。慶長3年(1598)秀吉が亡くなり、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、教如上人に接触して、慶長7年(1602)現在の京都烏丸六条・七条間の地を教如上人に寄進しました。
翌年上野国妙安寺(現在の群馬県前橋市)から宗祖・親鸞聖人の自作と伝えられる御真影を迎えて慶長9年(1604)御影堂を建立、新たな本願寺を創立しました。これが「真宗本廟」で、教如上人は「東本願寺創立の上人」とされます。
家康には本願寺勢力を分断する狙いがあったと考えられています。江戸時代の東本願寺は、創立時から徳川幕府との関係は良好で、寺院と門徒の間には寺檀(じだん)関係(檀那寺と檀家の関係)による強い結び付きがありました。比叡山が見えます。
幕末の蛤御門の変の戦火で両堂を失い、明治時代に入ると新政府による神仏分離令やその後の廃仏毀釈(仏教弾圧)によって、東本願寺も苦境に陥りました。(阿弥陀堂は儀式の準備のために御簾が下りていて本尊は拝めませんでした。)
明治16年(1880)再建が始まると全国の門徒が協力しました。両堂の間の渡り廊下に、困難な再建事業を示す遺物が残されています。下の大橇は上越市吉川区川谷の尾神嶽からケヤキの巨木を運ぶために使用されました。
しかし、巨木の運搬の際に引き綱が切れる事故が相次ぎ、より強い引綱として女性の髪の毛と麻をより合わせて編まれた下の毛綱が使用されました。全部で53本が寄進され、最大のものは長さ110m、太さ40cm、重さ約1トンにも及びました。
明治16年3月12日 尾神嶽中腹で幅200m、長さ100m以上の大雪崩が起こり、作業にあたっていた門徒の27人が死亡、90人あまりが負傷しました(尾神嶽殉難)。ようやく明治28年(1895)両堂を始めとする堂宇が再建されました。
一方で、教団は封建制度の体質を残したまま、戦争に協力していきました。そのような中で、当派の僧侶・清沢満之(まんし、1863-1903)は、教団の民主化と近代教学の確立を目指して宗門改革を提唱しました。
この運動は、昭和37年(1962)「同朋会(どうぼうかい)運動」として実を結び、以後50年以上にわたって東本願寺の信仰運動の基幹となっています。境内の南西に「同朋会館」があります。
しかし、教団の改革運動はすべての人々に受け入れられた訳ではなく、昭和44年(1969)教団問題が顕在化しました。歴代の法主(ほっす、法統伝承者)は本願寺住職、宗派の管長の3職を兼ねた絶大な権限を持っていました。
そのような伝統的な形態の教団を支持する末寺とともに、大谷家の門首が真宗大谷派(東本願寺の宗派)を離脱して「浄土真宗東本願寺派」を結成しました。 梵鐘は宗祖750回忌に際して鋳造されたもの。
さらに、意見の対立から二つの勢力が真宗大谷派を離脱しました。世間では「お家騒動」ともいわれましたが、実際には1万近くあった末寺の95%以上が東本願寺(真宗大谷派)に留まっています。「阿弥陀堂」
梵鐘は慶長9年(1604)教如上人が鋳造させたもの。近くにある「手水屋形」(重文)は3月末までの保存修理工事中で素屋根で覆われていました。
このあと、京の冬の旅で特別公開されている宮御殿と桜下亭の拝観受付がある参拝接待所に向かいました。
最後の写真は外から見た「阿弥陀堂門」です。お帰りの際には、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。
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