佛光寺六坊とその歴史
過去の全記事 2006年1月27日から毎日更新しています。
佛光寺の門前にかって佛光寺六坊とよばれた六つの塔頭があります。これらは先日の記事では紹介できなかった佛光寺の困難な時代を支え、塔頭とはいえ佛光寺に対し強い権限をもってきました。今日はその歴史を紹介します。
TOPの写真は佛光寺の御影堂門から見た門前通り。下はYahoo!Japanの地図で、この範囲には六坊(院号を持つ塔頭)以外に二つの塔頭があります。それぞれの由緒は別の機会に紹介するとして、今日は寺院名だけです。
佛光寺を中興した了源上人のころ、元亨元年(1321)親鸞の曾孫にあたる覚如により親鸞の廟堂「大谷廟堂」が寺院化されて独立。「本願寺」と号しました。「ブーブーパーク佛光寺東コインパーキング」
ここに新たな浄土真宗の一派浄土真宗本願寺教団(大谷本願寺)を立ち上げました。「光薗院(こうおんいん)」
佛光寺は移転にともない多くの参詣者を迎え隆盛をきわめました。また、了源の妻であった了明尼が女性として初の佛光寺9世に就任しました。この頃の末寺は3,000以上あったといわれます。
一方の本願寺は、当時は青蓮院の末寺に過ぎず、第8世法主蓮如の時代の寛正6年(1465)に、比叡山延暦寺西塔の衆徒により大谷本願寺が破却され荒廃していきました。「リズムメロディ保育園・リズムメロディ音楽院」
しかし、佛光寺も興隆していくにともない天台宗・延暦寺からの弾圧が強まっていきました。応仁元年(1467)第13世光教の時に応仁の乱が勃発。京都の街は戦火に巻込まれ、佛光寺も諸堂を焼失しました。
応仁の乱のさなかの文明3年(1471)蓮如は越前国吉崎で布教活動を再開し本願寺教団は急速に発展していきました。「久遠院(くおんいん)」
文明13年(1481)には佛光寺第14世経豪(後の蓮教)が、なんと本願寺の蓮如に帰依してしまい、山科西野に「興正寺」という名の寺院を建立しました。
佛光寺派の有力末寺48坊のうちの42坊を引き連れて本願寺に宗旨替えし、真宗興正派を形成してしまうという大事件が起きてしまいました。「長性院」
このため、佛光寺の寺勢は急激に衰え、代わって本願寺が台頭する状況になりました。戦国時代のことです。
残った有力末寺6坊は経豪の弟経誉を知恩院からよび戻し、新たに佛光寺第14世としました。以上の経緯から経豪は佛光寺歴代に数えられていません。「明顕寺」、六坊には含まれない佛光寺の塔頭です。
安土桃山時代の天正14年(1586)豊臣秀吉の懇請により、寺基を五条坊門の龍臥城(現在地)に移しました。寺の北にある通りは「仏光寺通」と呼ばれるようになりました。
秀吉による移転は、それまでの佛光寺の敷地を方広寺大仏(京の大仏)を収容する大仏殿造立のための用地に充てるためでした。「昌蔵院」
この時、佛光寺に残っていた有力末寺の6坊、南坊、新坊、西坊、中坊、奥坊、角坊も佛光寺の正面に寺基を移しました。
先のいきさつからこれら6坊は佛光寺に対して強い権限を持つようになり、その影響力を次第に強めていきます。そして江戸時代になると佛光寺は佛光寺住持とこれら6坊の住持によって運営されるようになりました。「大善院」
また、6坊は名称をそれぞれ、南坊は大善院、新坊は光薗院、西坊は長性院、中坊は久遠院、奥坊は教音院、角坊は昌蔵院へと改めました。「坊」は本山内にある僧房を想起するので、より独立性のある名称にしたのだと思われます。
佛光寺の住職は、室町時代以降二条家の猶子となり、妙法院門跡の許で得度する慣習がありました。やがて准門跡に列せられ、僧正位を代々受けてきました。「高林庵」、こちらも佛光寺の塔頭です。
明治になり苗字公称が義務づけられると、仏光寺住職は渋谷姓を名乗りました。渋谷(汁谷)はかっての寺があった地名で佛光寺の山号でもあります。
明治29年(1896)6月9日、管長渋谷隆教が男爵を授かって華族に列せられました。現門主は平成28年(2016)に就任した渋谷真覚です。「教音院(きょうおんいん)」
最後の写真は教音院の向かいにある佛光寺の勅使門。佛光寺の境内や今日紹介した辺りは映画『名探偵コナン 迷宮の十字路』のロケ地になりました。このあと、仏光寺通の方を見に行きました。
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コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
先週はめちゃくちゃ寒かったですが
今週の水曜日頃から少し暖かくなりそうです。ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2025年2月 9日 (日) 02:54