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2025年1月26日 (日)

大将軍八神社 都を守る唯一の大将軍

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の成願寺の向かいに「大将軍八神社」があります。平安遷都(794年)にあたり、桓武天皇が陰陽道にもとづいて、王城鎮護のため天門(北西の方角)に星神・大将軍を祀ったのが始まりとされ、当初は大将軍堂と呼ばれたそうです。

京都通の方ならば、平安京の造営に際して王城鎮護のために都の四方に大将軍を祀ったという説をご存知だと思います。私も他の三つの大将軍社を紹介するときは、それぞれに伝わる由緒を尊重してきました。

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しかしながら、この通説の出所や現在までの考古学的調査によって、この神社が唯一の大将軍を祀る神社だと考えるようになりました。手水舎の横に、平成22年(2010)の新宮司さん就任記念のユズリハの木があります。

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江戸時代に編纂された『山城名勝誌』や『和漢三才図会』によると、大将軍社が平安京の四隅に奉祀されたとされますが、平安京古地図には大内裏の北西角にしか描かれていないそうです。

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山城名勝志は、もと山城国の菓子屋の大島武好が京に出て野々宮家に仕えながら30余年を費やして1711年に完成した地誌です。末社の「三社」、右から命婦神社(女性の守護)、厳島神社(芸能)、猿田彦神社(道案内)を祀ります。

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和漢三才図会は、大坂の医師・寺島良安がこちらも30数年かかって編纂した日本の類書(百科事典)で1712年に完成。これらの書によって、四方の大将軍社の考えが広まったようです。それぞれの摂末社ののぼりがたてられていました。

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一方、陰陽道は中国に始まり、その書『宅経』によると 「北西を天門として大将軍を祀る」とあります。すなわち、唐の長安を手本として平安京の天門に大将軍を祀ることで、四方のすべてを守護したと考えられます。「社務所」

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末社の「五社」、右から恵比須神社(商売)、稲荷神社(開運)、天満宮(学問)、長者神社(金運)、金比羅神社(交通安全)を祀っています。(この神社では摂末社の名称や祭神、ご利益が丁寧に説明してあります。)

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当社の初見の資料として、『山槐記』に治承2年 (1178)高倉天皇の中宮建礼門院の安産祈願の際、諸社寺に奉幣使が参向し、その41社の内の1社として記されています。「本殿」

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室町時代の伏見宮貞成親王の日記『看聞御記』(1433年)によると、1340年から約100年間、大将軍堂は祇園感神院(現八坂神社)の末社になっていました。応仁の乱(1467-1477)で焼失、1535年に復興しました。現在の祭神は後ほど出てきます。

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江戸時代には大将軍村の鎮守社として祀られていました。この時代には方除厄除12社参りが流行し、天保11年(1840)に建立された石標が門前にあります。

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本殿右手前に方位神を祀る摂社があります。右に祀られている「歳徳神」は方位神の一つで、その年の福徳を司る吉方の神です。左の「大金神(だいこんしん)」は災いをもたらす凶方の神と恐れられ、それを鎮めるために祀られています。

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明治初年(1868)の神仏分離令によって、神社が仏教の神や外来神を祀ることができなくなりました。当社では、大将軍を「素盞鳴尊」と見なし、その御子・五男三女神とあわせて祭神として、桓武天皇を合祀することになりました。

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その際、社名を「大将軍八神社」と改めました。本殿の周囲を右回りします。上は、神木のオガタマノキ(黄心樹、招霊木)の大木でしたが、上の方の幹が折れてしまいました。左に神具庫、中央に鳥居が見えます。

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本殿の左後ろの「大杉神社」はこのあたりの産土神(うぶすながみ)を祀る摂社です。産土神はその土地で生まれた者を一生守護する神とされています。

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大杉神社の祠の横にある「豆吉(まめよし)神社」 一願成就の神とされ、ご神体はサンショウウオのような石の塊です。神社でも正体は分からないそうですが、鳥居も狛犬もミニチュアで一見の価値があります。こちらも小さいながら摂社です。

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本殿の裏に、信者が寄進したと思われる錨が安置されています。神社のHPには説明がありませんが、廃船の際に今まで安全に航行できた感謝を込めて、錨を神社に奉納する習わしがあるそうです。

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本殿の北東に宝物館「方徳殿」があります。 ここには、陰陽師・安倍晴明一族の「古天文暦道資料」(府指定文化財)や江戸時代中期の天文暦学者・渋川春海(1639-1715)の作とされる「天球儀」(府指定文化財) が収蔵されています。

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渋川春海は数学、天文、暦法を学び、中国からもたらされた宣明暦による日蝕・月食の予報が2日もずれる原因を解明しました。彼が提唱した大和暦が採用され、貞享元年(1685)に初代幕府天文方に250石をもって任ぜられました。

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さらに、方徳殿には平安時代中期から末期の木造神像(需要文化財)が多数保管されています。 これらは明治初期に境内の竹薮(地中)から発見されたもので、多数の古神像が一神社に伝来する例は他にないそうです。

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そのうち「武装像」50体「束帯像」29体「童子像」1体の計80体が、昭和47年(1972)国の重要文化財に指定されました。これらは立体星曼荼羅様に安置されています。(収蔵物の写真は神社のHPからの転載です。)

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古神像のうち「武装像」は(仁王像などの)仏教の天部像と共通する特徴もあり、方位を司る大将軍ではないかと考えられています。重要文化財指定を契機に昭和50年(1975)に方徳殿が建てられ、5月と11月初めの5日間だけ公開されます。

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80体の古神像について東京国立博物館の丸山士郎氏による研究が行われ、仏教彫刻の強い影響下で仏像ではない神像をいかに表現しようかという製作者(おそらく仏師)の工夫のあとが見られるそうです。

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「束帯像」は武装像程多くはなく、すべて坐して、冠・袍を着用しています。星曼荼羅の北斗星は和装の束帯上に唐装の鰭袖を着けており、当神像との関連が考えられるそうです。

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「童子像」 童の服装である水干と袴を着用しています。左膝を立て草鞋をはき両手を袖の中に入れた姿勢をとっています。北斗星の武曲星には童子形の眷属(けんぞく、家来)が描かれ、当童子像と酷似しているそうです。

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久世康博氏(京都市埋蔵文化財研究所)は、市内における平安遷都以前から平安時代全般の祭祀に関する遺構・遺物を、少しでも可能性のあるものを含めて網羅しました。それによると大将軍関係では当神社以外に出土した祭祀跡はないそうです。

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古神像群は「日本の兵馬俑」ともいえるもので、桓武天皇が平安京の造営にあたって(都の四方ではなく)天門(北西)に大将軍を祀ったという神社の由緒を補強するものといえます。(本殿の右横)

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方徳殿の角に小さな庭園が造られていました。このあと、再び一条通を東に歩きました。

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