地蔵院(椿寺)2025
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一条通堀川東入ルに「京の冬の旅」で特別公開されている地蔵院があります。1月10日(金)~3月18日(火)の期間です。
「地蔵院」は山号を昆陽山という浄土宗の寺院です。奈良時代前期の神亀3年(726)聖武天皇の勅願により行基が創建したといわれています。門前にはいくつか石標が並んでいます(後で説明します)。
参道脇に豊臣秀吉が寄進したという「五色八重散椿」があったことから、椿寺ともいわれてきました。山門の石標の一つに「豊公愛樹五色八重散椿 此寺にあり」と刻んであります。
当時の木は枯れ、現在は樹齢約百年の二世が幹周り40センチまでに成長しています。この散椿の見頃は3月下旬から4月中旬で、現在は青葉が茂っています。
創建当初は、摂津国昆陽(こや)池畔(兵庫県伊丹市)にありましたが、平安時代に京都の衣笠山南麓の内野に移され、七堂伽藍が建てられたといわれています。当初は八宗兼学でした。特別公開では「本堂」に上がることができます。
本堂には本尊・五劫思惟阿弥陀如来像を安置しています。気の遠くなるほど長い間「衆生の救済」を考え続け、頭部の螺髪が伸びています。大きな髪型とふっくらとした顔立ちをした姿はどこか愛らしく、「おたふく阿弥陀」の愛称で親しまれています。
仏像の写真は京の冬の旅のガイドブックからの転載です。室町時代の明徳2年(1391)内野合戦(明徳の乱)の兵火で焼失しましたが、応永4年(1397)に足利義満が北山殿(金閣寺)の余材で地蔵院を再建したといわれています。
参道正面に「地蔵堂」があり、「昆陽野(こやの)地蔵」、「鍬形(くわがた)地蔵」といわれる地蔵尊が安置されています。行基作といわれるかつての本尊で、山号の由来になりました。
洛陽四十八願所地蔵めぐり(京都四十八願寺)の第12番札所本尊で、安産守護の信仰があります。 この地蔵尊には逸話があります。
かつて、大将軍村に庄兵衛という農夫がいて、日照りの年に自らの田にだけ水を引き入れ、ほかの者が困り果てました。ある日、田に見慣れない僧があらわれ水のことを諭しましたが、庄兵衛は怒って鍬で僧の顔を殴りつけました。
額から血を流した僧は何もいわずにその場を立ち去りました。庄兵衛が後をつけると地蔵院に消えました。堂内を覗くと地蔵尊の額から血が流れていて、あの時の僧であることが分かりました。(地蔵堂の周囲には奉納された石仏があります。)
その後庄兵衛は反省して村人とも仲良くしたといわれています。地蔵堂の背後の板塀は北野天満宮にあった多宝塔の遺構とされます。明治の神仏分離令によって北野天満宮の寺院建造物はすべて壊され、その部材は売却されました。
仏像や経典、仏画なども散逸の危機にありましたが、多くは近隣の寺院に引き取られました。多宝塔の大日如来像は近くの浄土宗親縁寺に移され、地蔵院には内部の絵画(壁画?)が移されたようです。
以前は絵が描かれた扉は保護のため覆いがしてありました(上の写真)。 現在は観音堂に移され、今回公開されていました。 極彩色の閣魔天(右)と火天(左)が描かれています。
地蔵堂の裏から本堂の横にいくと、小さな墓地になっています。「切支丹墓」、住人が手水鉢として使ってきたものが墓と分かり、当寺に納められました。
向うは本堂の裏でこちらにも散椿が植えられています。右は「天野屋利兵衛之墓」の石標です。
利兵衛は赤穂事件で浪士たちを支援した商人ですが、この墓は別人の天野屋理兵衛の墓とみられています。理兵衛は総年寄でしたが奉行咎めにより所払いとなり、当寺の隅に庵を建て茶道三昧の余生を送ったといいます。
地蔵堂の右手にある「観音堂」、洛陽三十二所観音霊場第30番札所になっています。今回の特別公開では本堂から観音堂に渡ることができました。
観音堂の中央厨子内に平安時代の慈覚大師作という秘仏の「十一面観世音菩薩立像」を安置しています。 両脇に雨宝童子(左)、春日龍神(右)を
従えています。
地蔵堂の横に「夜半亭巴人(はじん)」の墓があります。巴人は幼くして江戸に出て俳諧の道を志し、芭蕉の『奥の細道』の足跡を辿った旅の後、江戸に「夜半亭」を構え「宋阿」と号しました。その頃謝野蕪村を指導したとされます。墓には「宋阿墓」とあります。
安土桃山時代の天正10年(1582)、本能寺を攻めた明智光秀は当寺の寺域に本陣を張ったといわれています。地蔵堂の前には大きな枝垂れ桜があります。
天正15年(1587)豊臣秀吉の北野大茶会の際に秀吉の宿舎として当寺が使われ、散椿を寺に献木したといいわれています。天正17年(1589)には秀吉の命により地蔵院は現在地に移されました。「寺務所」、ご朱印が頂けます。
江戸時代の寛文11年(1671)住持・善曳は知恩院末寺と改め浄土宗に改宗、本尊を五却思惟阿弥陀如来としました。ガイドブックに散椿と枝垂桜が咲いている写真がありました。このあと、一条通(妖怪ストリート)を歩きました。
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コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
与謝蕪村の師である巴人の墓が
このお寺にあるのですね。
相当古い墓ですね。
立札がなければ分からないです。
ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2025年1月22日 (水) 01:36
★ゆーしょーさん こんばんは♪
私も後で写真を整理していて初めて知りました。
投稿: りせ | 2025年1月22日 (水) 01:50