妙蓮寺 その歴史と伽藍
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寺之内通堀川西入ルに妙蓮寺があります。「妙蓮寺」は山号を卯木山(うぼくさん)という本門法華宗大本山。「山門」は江戸時代後期(1818年)建立、御所から移築され、左右に両袖番所が付いています。
妙蓮寺は鎌倉時代の永仁2年(1294)宗祖日蓮聖人より京都での布教の遺命を受けた孫弟子・日像上人によって創建されました。
日像上人が遺命を果たすため鎌倉から上洛した時、 五条西洞院の柳酒屋が聖人に帰依し、未亡人が邸内に一宇を建立して上人を開山に招き、卯木山妙法蓮華寺と称したのが始まりです。山号の卯木は柳という字が由来です。
「鐘楼」は江戸時代初期の元和3年(1617)に建立、天明の大火(1788年)でも焼失を免れました。全国的にも珍しい本格的な袴腰型鐘楼で日本建築史上、江戸時代を代表する建築物だそうです(重要文化財に未指定)。
細部の、腰組の蓑束や頭貫木鼻、軒組拳組や隅木上の持送りなどの絵樣や彫刻等は すべて江戸時代初期の年代的特色をよく現し、全体として和様と禅宗樣の二つの様式が巧みに折衷されいるそうです。
「御会式桜(おえしきざくら)」 10月13日の日蓮大聖人御入滅の日、前後から咲き始め、年をまたいで、4月8日のお釈迦様の生誕日ごろ満開となる珍しい桜です。
この桜の散った花びらを持ち帰ると「恋が成就」するといわれています。「決して、枝を手折るようなことはしないでください。手折った恋は実りません。」とHPにあります。
その後、妙蓮寺はたびたびの法難にあいましたが、室町時代の応永年間(1420年頃)本勝迹劣(ほんしょうじゃくれつ)、本迹一致(ほんじゃくいっち)の論争を契機に、妙顕寺を出た日慶上人によって柳屋の地に本門八品流として再興されました。
上述の論争は法華経の解釈に関する論点だそうです。天台法華経を構成する28章は、前半の「迹門」、後半の「本門」に二分されます。 本勝迹劣は法華経の後半の「本門八品」にその極意があるとし、その流派は本門八品流と呼ばれます。「本堂」
八品(はっぱん)は本門の八つの章のことです。本迹一致は、本迹の違いを認めつつも28章を一体として所依(しょえ、よりどころ)とすべきという主張で、その諸派は一致派と呼ばれます。(本堂の右に「沼津本光寺 日英上人 記念植樹」がありました。)
さらに、寺域を堀川四条に移し、皇室ならびに伏見宮家と関係が深い日応僧正を迎えると、皇族を始め足利将軍義尚らの参詣が多くありました。 (本堂には本尊として十界曼荼羅を祀ります。)
天文5年(1536)法華宗の隆昌を妬む比叡山天台宗らの僧俗10万人によって襲撃される天文法華の乱(法難)が起こり、妙蓮寺をはじめとする日蓮聖人門下21本山は、ことごとく焼失、堺に避難しました。(本堂の裏)
天文11年(1542)大宮西北小路に復興され、天正15年(1587)には、豊臣秀吉の聚楽第造営に際して現在地に移転しました。(本堂の裏には渡り廊下があり、その下をくぐります。)
本堂の北(裏)には表書院(下)と宝物殿などの建物があります。表書院、奥書院、会議室などは貸席として利用できます。諸教室・稽古、学校のクラブ・合宿などの文化的な活動が対象です。
江戸時代前期には、1km四方の境内に塔頭27院を有する大寺院となりました。しかし天明8年(1788)の大火によって、そのほとんどが焼失、わずかに宝蔵・鐘楼 を残すだけでした。
本坊は本山寺務所となっていて、拝観入口でもあります。書院庭園である「十六羅漢石庭」は桂離宮を造庭した当寺の僧・玉淵坊日首の作で、白河砂に16の石を配置し、北山杉を植え込んだ枯山水庭園です。
中央の大きな青石は豊臣秀吉の寄進と伝えられる臥牛石で、白砂は宇宙を表し、15石は苦悩する民衆の中から立ち上がる菩薩(羅漢)を表現しているそうです。(下は妙蓮寺のHPからの転載。)
妙蓮寺は、寛政元年(1789)から漸次復興して現在に至ります。本坊の右奥の墓地(最後の写真の右)に赤穂義士の墓(遺髪)があります。かっては、忠臣蔵を上演するときには参拝がありましたが、今は途絶えています。
このあと、現存する八つの塔頭をめぐりました。お帰りの際には、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。
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コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
自分が行ったことがある所なら
色んなコメントが書けるのですが
知らないとことならあまりコメントが
書けないです。
ものすごく立派な鐘楼ですね。
ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2025年1月13日 (月) 00:32