大原の里を歩く 建礼門院の道
過去の全記事 2006年1月27日から毎日更新しています。
先日、大原の出世稲荷神社を訪れたあと、高野川の対岸にある寂光院をめざして歩きました。坂道を下ると一対の「魚山宝前」の灯籠があります。
かっての魚山大原寺(魚山の寺々)の参道入口を示しています。その手前には「證據阿弥陀佛… 圓光大師…」の石碑があり、証拠の阿弥陀と法然上人旧跡のある勝林院を指しているようです。
ここで魚山の参道は終わり、南からきた道に合流します。上の写真の左の道標は「右魚山(今来た方向)、左敦賀街道 寂光院」。敦賀街道は鯖街道ともよばれ、現在ではバス通り(国道367号)を指しますがここが旧街道のようです。
この道は高倉天皇の中宮だった建礼門院(平徳子)が大原に隠棲するために通った道で、以下では徳子が都から離れたこの里にくることになった経緯を紹介します。「あじさい茶屋」
平徳子(1155-1214)は父・平清盛、母・平時子の間に生まれ、異母兄に重盛、基盛、同母兄弟に宗盛、知盛、重衡がいます。1171年高倉天皇(後白河法皇の第7皇子)が元服すると、入内して中宮となりました。(国道と京都バスの「大原停留所」)
徳子には子がすぐには生まれず、高倉天皇は乳母との間に功子内親王、小督局との間に範子内親王をもうけました。『平家物語』では清盛が激怒して小督局を追放したとされます。(寂光院への道はバス停の裏を通ります。)
1178年徳子の懐妊が明らかになり、後白河法皇は安産祈願に駆けつけました。同年11月12日徳子は言仁親王を出産、翌12月言仁親王は立太子して皇位継承者となりました。(高野川沿いにコスモス畑がありました。)
1179年11月14日、清盛はクーデターを起こして後白河法皇を鳥羽殿に幽閉。1180年高倉天皇は3歳の言仁親王(安徳天皇)に譲位、4月22日の即位式では徳子は安徳天皇を抱いて高御座に上ったといわれています。(カフェの「KULM」)
このとき、朝廷は平氏一門と親平氏貴族で固められ、高倉上皇には実権はありませんでした。「来隣(きりん)」、有機野菜を使ったオーガニックレストラン、カフェです。
徳子は政治案件の諮問を受けたり、行幸の際は安徳天皇と同輿するなど母后の責務を果たしていましたが、12月后位を退き病気となった高倉上皇と同居しました。「寂光院道」 、この府道を通り春分の日だけ運航する京都バスの路線は一昨年廃止されました。
1181年正月14日、高倉上皇は21歳で崩御。同年閏2月4日清盛も熱病に倒れて急死しました。 この頃、すでに各地で源氏が挙兵していました。(かって茅葺屋根だった合掌造りの民家が残っています。)
1183年5月平氏の北陸追討軍が木曾義仲に撃破され、延暦寺が義仲軍についたことで平宗盛は京都の防衛を断念します。7月24日深夜、後白河法皇は密かに比叡山に脱出しました。「草生児童公園」
翌25日法皇の脱出を知った宗盛は六波羅に火を放ち、安徳天皇、徳子ら一族を引き連れて都落ち。後白河法皇は平氏追討宣旨を下し、平氏は1185年3月24日壇ノ浦の戦いで滅亡しました。
壇ノ浦で生き残った建礼門院らは京都に護送され、平宗盛は斬首、平時忠は配流となりました。建礼門院は罪に問われることなく、同年5月に長楽寺で出家、直如覚と称しました。「わっぱ堂」大原野菜やジビエなどを用いたイタリアンです。
京都に連れてこられた建礼門院は東山の麓の吉田にある中納言・慶恵の僧房に住まいしました。庭の草は深く、軒にはしのぶ草が茂り、簾は切れて寝室が見えるほど荒れていました。
ところが、7月9日京都を大地震が襲い、多くの建物が倒壊、吉田の僧坊も被害を受けたと思われます。9月になると建礼門院は「山里は物のさびしき事こそあれ 世の憂(う)きよりは住みよかりけり」と、大原寂光院に向かいます。「朧の清水」
隠棲の地・寂光院に向かう途中、このあたりで日が暮れてしまいました。月光のもとで、清水の水面に写る自分のやつれた姿を見て嘆いたとされます。
ところで、1185年7月9日に起こった地震は、天変地異として翌年に改元された元号によって「文知地震」と呼ばれています。(高野川の支流・草生(くさお)川にかかる「上草生橋」、寂光院は右にあります。)
特に京都の被害が著しく、白河の法勝寺で金堂廻廓、鐘楼、阿弥陀堂および九重塔などが破損しました。閑院の皇居が破損、宇治橋が落下して渡っていた十余人が川に落ちて1人が溺死。 (寂光院に向かう道、閉門時間が近いので急ぎます。)
近江では三井寺で金堂廻廊が転倒。遠国においても被害が発生し津波があったともいわれています。近畿だけしかない記録からマグニチュード7.4、震源として琵琶湖西岸断層帯活動説や南海トラフ巨大地震説があります。「落合の滝」
建礼門院の歌「ころころと 小石流るる谷川の 河鹿鳴くなる 落合の滝」。河鹿は谷川に棲み美しい声で鳴くカエル、落合とは川と川が合流する場所で、ここは焼杉谷川と西田谷川が合流して草生川になる地点です。
文治地震は壇ノ浦の戦いの約4ヶ月後に発生、『平家物語』には平家の怨霊と記されています。「味噌庵」味噌は昔ながらの製法と良質の素材(大豆・塩・麹のみ使用)によって、こだわりの味を守っています。
おそらく都の人々も怨霊を信じ、住居の被害もさることながら、建礼門院は都にいることがつらかったのではないかと思われます。「曇井茶屋」味噌鍋専門のお蕎麦屋さんです。味噌鍋ば野菜や鶏肉の具材が一杯入っていて、定食もあるそうです。
民宿「大原の里」 大原には温泉が湧き、その湯元の一つ。日帰り入浴もでき、自家製味噌鍋が名物です。ライブカメラがあります。この日は外国人の方が宿泊していました。
「治郎兵衛」 おみくじが入った蕎麦ぼうろ「おみくじぼうろ」やキャラメルティー「風香」が評判です。専業主婦の方がお店をしていて、旦那さんと犬はお手伝い?だそうです。
「大原山荘」 ここも湯元で大きな温泉旅館です。駐車場の右に温泉の自動販売機があります。
大原山荘の足湯とカフェ、宿泊しなくても利用できます。寂光院の塀が見えてきました。寂光院にはかって建礼門院に仕えた女官・阿波内侍が住持をしていました。
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コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
高倉天皇の皇后、建礼門院の道
というのがあるのですね。
京都には色んな人の名を付けた
道があるのですね。
ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2024年12月14日 (土) 00:31
★ゆーしょーさん こんばんは♪
道そのものに由緒があると、歩きながら当時の光景を思い起こすことができ、多くの観光客を呼び寄せることができると思います。
投稿: りせ | 2024年12月21日 (土) 00:18