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2024年12月 4日 (水)

鷹峯街道を歩く 遣迎院と岩戸妙見宮

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日鷹峯の三寺を訪れたとき、鷹峯街道の建物を見て歩きました。鷹峯街道は北山通から北に向かい(この区間は千本通と同一)、鷹峯で西に曲がり、丹波国・旧京北町方面に至る旧街道です(TOPの写真)。

交差点の南西に「光悦美術館」がありますが、休館中です。開館している記事を見たことがないので、光悦の遺品や作品、資料を所蔵している施設が何らかの事情で美術館登録をしているのかも知れません。

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その隣に遣迎院の長屋門が見えます。この「表門」は、備中高松城の城門を移築したもので、なまこ壁と窓が特徴的です。

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「遣迎院(けんごういん)」は、浄土真宗遣迎院派本山で山号はありません。鎌倉時代前期の1201年証空(しょうくう)により開山され、当初は伏見大路の東(東福寺前三ノ橋南)にあったといわれます。

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寺名の「遣」は、現世の仏である釈迦如来が「遣わした」釈迦、「迎」は来世の仏・阿弥陀如来が「迎える」という意味があるそうです。右の石標には「不断念佛・根本道場 遣迎院」、左の看板には「ゆけよ 遣釈迦 こいよ 迎弥陀 本尊」とあります。

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証空(1177-1247)は、村上源氏の流れをくむ久我一門源親季の長男で、1185年、内大臣・久我通親の猶子になり、1190年に14歳で出家。浄土宗開祖・法然の弟子になり、善恵房證空と名付けられ法然が没するまでの23年間師事しました。

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1198年、法然が九条兼実の請によって浄土宗の根本聖典「選択本願念仏集」を撰述した際に証空は勘文の役を務め、1199年には法然に代わり九条兼実邸で選択集を講じました。「宝篋印塔」

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「勘文(かんもん)」とは、朝廷から諮問を依頼された学者が由来・先例等を調査して報告することだそうです。「釈迦弥陀仏足石」、浄土真宗では釈迦が阿弥陀如来の働きによって救われると説いたことから二尊を祀ることが多いようです。

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証空に帰依した摂政関白・九条道家の屋敷を後に仏閣としたともいわれています。当初は、浄土、天台、真言、律の四宗兼学道場でした。また、宮中の仏事を司り仏殿を守る「四箇本寺」(他に廬山寺、二尊院、般舟院)のひとつでした。

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これらの四寺は「御黒戸四箇院」とも呼ばれ、住職晋山(就任)の際には参内し、紫の衣を贈られる慣例がありました。宮中の御内仏殿に用いられている「黒戸」から名がつけられ、現在でも京都御所には「黒戸の間」があります。

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安土桃山時代に豊臣秀吉の大仏殿(後の方広寺)建設の敷地となり、立ち退きを迫られました。 (本尊として釈迦如来・阿弥陀如来の二尊を祀っています。 遣迎院は拝観を行っていないので、本堂の中には入っていません。)

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結局大仏殿は渋谷(しぶたに)仏光寺建造されることになりましたが、その経緯の中で遣迎寺は二寺に分割されました。一寺は旧地に残り浄土宗西山禅林寺派の南遣迎院に、もう一寺は北之辺町(京都御所の東)に移され、禁裏御内仏殿で寶祚無窮の道場となりました。

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「寶祚無窮(ほうそむきゅう) 」は、天皇家が栄えることは窮(きわ)まることがない、という意味だそうです。下は「弘誓(ぐぜい)之船」の碑、仏・菩薩が衆生を悟りの彼岸に導くことを、船が人を乗せて海を渡すのにたとえた仏語です。

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江戸時代には天台宗別格本山で徳川幕府とゆかりが深い上野・寛永寺の末寺となり、朱印寺領53石を授かりました。しかしながら、宝永の大火(1708)、天明の大火(1788)で焼失しました。 「丸に四つ目菱」の紋は清和源氏の流れを汲むそうです。

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昭和30年(1955)に寺町から現在地の鷹峯に移り、天台宗から浄土真宗遣迎院派の本山となりました。(長屋門の脇部屋には門兵が控えていたそうですが、現在は納屋になっています。)

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聖天堂に祀られている「福禄寿」は、慈覚大師・円仁(794-864)が唐から持ち帰ったという。福神、禄神、寿神の三神合体像です。鹿に乗り巻物を持ち、福寿増長のご利益があるとされます。(上の石標の奥に門がありました。)

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寺が寺町通にあった頃は、「京都七福神」の一つとしてにぎわったそうですが、聖天堂も現在は拝観をしていません。屋根に載っている菊門の瓦がかっての皇室とのつながりを示しているようです。遣迎院を後に、西に歩きます。

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源光庵の西隣に「京都市立鷹峯小学校」があります。

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小学校の向かいに「琳派四百年記念碑」。鷹峯の地は、本阿弥光悦が1615年に徳川家康から与えられ、「光悦村」と呼ばれる芸術村を拓いた地です。その流れは後に「琳派」と呼ばれ,400年を経た今もなお日本美術に多大な影響を与え続けています。

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記念碑は、2018年6月服飾評論家の市田ひろみさんの寄贈です。琳派に象徴される日本の美と美意識が、次代を担う若者に受け継がれ、これからも優れた芸術が創造されることを祈念して建立されたそうです。(写真は産経WESTからの転載)

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光悦寺の向かいに「圓成寺(岩戸妙見宮)」があります。山号を清雲山という日蓮宗の寺院です。かって鷹峯一帯は大極殿の北に位置するので北山と呼ばれ、皇城北方鎮護の官寺「霊巌寺」があり、妙見大菩薩が祀られていました。

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中世には衰退しましたが、1630年、日蓮宗本山本満寺21世圓成院日任(にっとう)上人が一条家の支援によって再興、日本第一の妙見霊場としました。

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「岩戸妙見宮」は古墳状の石窟造りで、内陣には大亀に乗り、右手に剣、左手に蛇を握り、頭上には北斗七星を戴いた六尺余の妙見大菩薩が鎮座しているそうです。境内のカエデが見事に紅葉していましたが、撮影禁止でした。

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このあと、光悦茶屋に向かいました。お帰りの際には、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。

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コメント

こんばんは。ゆーしょーです。
南天がよく実りましたね。
それに千両もきれいです。
どちらも正月の活け花には
欠かせませんね。
ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2024年12月 5日 (木) 00:03

★ゆーしょーさん こんばんは♪
この時期になると、南天や千両・万両の実が目立ちますね。

投稿: りせ | 2024年12月10日 (火) 00:05

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