金閣寺 鏡湖池と舎利殿
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昨日に続いて金閣寺の「参拝門」(TOP)をくぐって庭園にはいります。あわせて、幼くして将軍となった足利義満が金閣寺を創建した経緯やその後の歴史を紹介します。
「浄蔵貴所塔」 浄蔵は平安時代の天台密教僧で、加持、祈祷にすぐれ、神通力で八坂の塔の傾きを直したといわれています。お参りすると浄蔵の不思議な力によって願い事がかなうといわれます。
「南池跡」 2018年10月金閣寺と京都市埋蔵文化財研究所が発掘調査の結果、室町時代前期に築造された庭園の中島や築山(堤)や建物礎石が発見されたと発表しました。江戸時代の絵図「北山鹿苑寺絵図」(1790年)だけに描かれ、
実在もよく分かっていなかった「幻の池」でしたがその実態が明らかになりました。応仁の乱では金閣寺が西軍の陣地となりましたが、ここは防御用の曲輪(くるわ)として利用されたと推測されるそうです。
父義詮が死去した翌年の1368年、足利義満は11歳で将軍職を継ぎ、父の遺言により管領細川頼之が補佐役として幼君を助けました。「鏡湖池(きょうこち)」と「金閣」、手前に中の島の「葦原(あしはら)島」が見えます。
一層は寝殿造の法水(ほっすい)院、二層は武家造の潮音洞(ちょうおんどう)、三層は中国風の禅宗仏殿造の究竟頂(くっきょうちょう)とよばれます。三つの様式を見事に調和させた室町時代の代表的な建物といわれています。
義満は細川頼之の補佐を受けながら将軍としての地位を確立、1371年室町北小路に室町第を完成させて幕府を移します。後に足利幕府が室町幕府と呼ばれる由縁となりました。(下は一層内部の写真で、外に貼ってあるポスターを撮影しました。)
金閣寺の庭園は92,400㎡あり「鹿苑寺庭園」とよばれる池泉回遊式庭園です。庭園の中心の鏡湖池は約6,600㎡あり、池の西の方(写真の左端)に木戸があって通れません。右奥の「細川石」は義満時代の官僚・細川頼之が寄進した名石です。
1374年義満は日野業子(なりこ)を正室に迎え、1382年開基として相国寺の建立を開始し、翌年には自らの禅宗の修行場として塔頭・鹿苑院も創建しました。(鏡湖池には大小の島々、畠山石などの奇岩・名石が配されています。)
池の東にある「方丈」は、延宝年間(1673-1681)に4世文雅慶彦と後水尾上皇によって再建され、大仏師・忠円作とされる本尊「聖観世音菩薩坐像」、開山の「夢窓疎石像」、開基の「足利尊氏像」、中興の祖「文雅慶彦像」などが安置されています。
1392年義満は全国的に衰微した南朝方と交渉を進め、三種の神器を北朝の後小松天皇に接収させ、南朝が解消される形での南北朝合一を実現しました。「陸舟(りくしゅう)の松」、義満遺愛の五葉松の盆栽を帆掛け船の形に植え替えたと伝わっています。
金閣の屋根は椹(さわら)の薄い板を何枚も重ねた柿葺(こけらぶき)で、上には中国の想像上の動物で、永遠の命を持ち権力の象徴、火の鳥とされる鳳凰が輝いています。この鳳凰は金銅製で1987年に修復された4代目だそうです。
1397年には西園寺家から京都北山の「北山弟」(ほくさんてい)を譲り受け、舎利殿(金閣)を中心とする山荘「北山殿」(北山第)を造営しました。1399年以降は本格的にこの山荘に移り住み、活動の拠点としました。
北山殿には正室日野業子の北御所、側室日野康子の南御所、叔母・祟賢門院の御所などが建てられました。祟賢門院(広橋仲子)は後円融天皇の生母で、姉妹の紀良子が足利義詮の側室、足利義満の生母です。当初金閣には三層のみに金箔が貼られていました。
1405年正室の日野業子、1408年に義満が亡くなると、その翌年、子の4代将軍・義持は三条坊門殿に移り、北山殿は日野康子の居所になりました。(池の北に廻ります。)
鹿苑寺の寺号は、義満の法号「鹿苑院殿」にちなんでいます。鏡湖池は舟遊式庭園でもあり、金閣の西に突き出た「漱清(そうせい)」に舟を着けます。8代将軍・足利義政はここで手水を使い金閣に上がったといわれています。
1419年に康子が亡くなると北山殿は破却され、翌年義持によって紫宸殿は南禅院へ、天鏡閣は南禅寺へ、懺法堂は等持寺へ、公卿間は建仁寺へなど、諸堂は他の寺院に移築されました。(北から水が流れ込んでいます。)
このとき、舎利殿、護摩堂、法水院は残されたといいます。 (池から離れ北の斜面の方に向かうと、正面に授与所があります。)
授与所の裏の「榊雲(しんうん)」は鹿苑寺の鎮守社で春日明神を祀ります。ここからしばらく斜面の下の道を東に行きます。
残された舎利殿は、臨済宗の僧・夢窓疎石を開山(開基は義満)として、北山鹿苑寺という禅寺になりました。(下は「銀河泉」 鹿苑寺の前身の北山殿を開いた足利義満は茶を好み、この水を用いたといわれています。)
応仁の乱では鹿苑寺に西軍の陣地が置かれ、建物や庭園は破壊や焼失しましたが、金閣だけは焼失を免れました。「巌下水(がんかすい)」、義満が手水に用いたとされます。
しかし、昭和25年(1950)に放火により焼失、5年後に創建当初の姿に復元されました。「金閣寺垣」、この石段は通れませんが後で上の方に行けます。
「龍門滝」と「鯉魚石(りぎょせき)」 中国の「登龍門」の故事にちなみ、義満の北山殿以前の西園寺家の遺構といわれます。
庭園は1956年に特別史跡・特別名勝に指定され、1994年金閣寺は世界文化遺産「古都京都の文化財」の構成要素の一つとして登録されました。 坂道の下に石像が置かれていて、大勢の参拝客が取り囲んでコインを投げ入れていました。
ここから坂道を上って、高台にある建物や史跡を見に行きます。
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コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
金閣寺はいつ見ても素晴らしいです。
この素晴らしい金閣寺をもう一度見たいものです。
紅葉と金閣寺の写真がいいですね。
京都の紅葉はお寺によく似合いますね。
ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2024年12月 9日 (月) 00:13
★ゆーしょーさん こんばんは♪
金閣寺の境内の紅葉は綺麗でしたが、金閣そのものの周辺にはあまり紅葉がないことが分かりました。
投稿: りせ | 2024年12月21日 (土) 00:09