鷹峰・光悦寺 2024秋
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先日鷹峰の源光庵を訪れた後、光悦寺に来ました。入口に警備員の方が立っていて、参道での写真撮影を禁止していました。混雑しているときに撮影をしている方の転倒事故があり、救急車で運ばれたことが原因だそうです。
途中の山門に拝観受付があり、そこから先の参道では撮影可能でした。カエデは陽があたる上の方の葉が紅葉、下の葉は緑のままでした。
「光悦寺」は山号を大虚山(たいきょさん)という日蓮宗の寺院です。江戸時代初期の元和元年(1615)、本阿弥光悦(1558-1637)が徳川家康から与えられた地に草庵を結んだのがその始まりです。(珍しい茅葺き屋根の鐘楼があります。)
光悦は刀剣の鑑定、研磨、浄拭(ぬぐい)を家業とする京都の本阿弥光二の長男でしたが、京では書画、蒔絵、漆芸、作陶、茶の湯など様々な分野の芸術家として知られていました。(ご朱印の受付)
書は寛永の三筆の一人と称され、光悦流の祖と仰がれています。ここに光悦の一族や様々な工芸の職人らが移り住んで芸術の村となりました。人々は法華宗徒の仲間でもあり、法華題目堂が建てられました。「本堂」
当時鷹峰の地は京の七口の一つ長坂口があり通行の要衝でしたが、辻斬りや追い剥ぎが出没する物騒な土地でもあったそうです。家康がこの地を光悦に与えた理由には諸説あります。 (本尊の十界曼荼羅を安置しています。)
光悦は王朝文化を尊重し、後水尾天皇の庇護の下に朝廷と深いつながりがありました。公家や有力商人との人脈もあった光悦を、後水尾天皇のいる都から遠ざけようとしたというのが有力な説です。(本堂と庫裡をつなぐ渡り廊下の下をくぐります。)
庫裡の隣に「妙秀庵」があります。妙秀は光悦の母の名だそうです。光悦寺の庭園には7つの茶室が点在し、いずれも大正時代以降の建物ですが、光悦の時代の建物を再建したものもあります。
すぐ右手に「三巴(さんぱ)亭」。大正10年(1921)に建てられた数奇屋建築で、八畳2室、水屋等からなります。北西の八畳は光悦堂と称し、仏壇には光悦の木像を安置しています。三巴には、「過去、現在、未来」という意味があるそうです。
「光悦垣」 竹を粗く組んだ垣で、組子は2枚合せの割竹で菱目に組まれています。最上部の玉縁は細割竹を束ねて太く作られ、弧を描いて地面に届き、臥牛(がぎゅう)垣ともいわれます。地表少し上に半割竹の押縁が渡されています。
右にある大虚庵の露地庭の仕切りに用いられ、長さ18mあります。片側が次第に低くなり地面に消えることから、遠近法によって庭を広く見せる効果もあり、現在では様々な場所で見られます。
家康は、後水尾天皇や都の動向を監視させるために光悦に鷹峰の地を与えたという説もあります。詩仙堂の石川丈山、八幡の松花堂昭乗とともに、幕府の隠密の役を担っていたという説です。興味深い説ですが、どの程度の根拠があるかは分かりません。
「大虚庵」 大虚庵は光悦が営んだ居室の名称で、光悦寺の山号のもとになっています。この茶室は大正4年(1915)に新たに建てられたもので、道具商・土橋嘉兵衛の寄付、速水宗汲の設計です。先ほどの光悦垣は右にあります。
「了寂(りょうじゃく)軒」 大虚庵の向かいにあり、かって題目堂があった場所と伝わっています。
了寂軒の向かいに田中王城(おうじょう)の句碑があります。「山二つ かたみに時雨 光悦寺」。田中王城(1885‐1939)は京都に生まれ、初め正岡子規の句を慕い、後に高浜虚子に師事しました。ホトトギス同人となり、雑誌『鹿笛』を刊行しました。
アメリカ人蒐集家・チャールズ・ラング・フリーア(1854-1919)の記念碑があります。日本などアジアの美術・工芸品を収集して、スミソニアン博物館に寄贈し世界に広めました。光悦寺にもたびたび訪れ、後にアジア専門のフリーア美術館を設立しました。
記念碑の横に「光悦の墓」への道があります。寛永14年(1637)、光悦は大虚庵で亡くなり、没後、本法寺12世・正教院日慈(にちじ)を開山として日蓮宗の寺院となりました。
途中に水原秋桜子の句碑があります。「紅葉せり つらぬき立てる 松の幹」。水原秋桜子(1892-1981)は東京に生まれ、産科医でしたが高浜虚子の影響を受けて俳句に興味を持ち『ホトトギス』の課題選者に就任、後に『馬酔木(あせび)』を主宰しました。
光悦は、俵屋宗達、尾形光琳とともに、琳派の創始者としても知られ、光悦が後世の日本文化に与えた影響は大きいといわれています。奥の突き当りに光悦の墓があります。
その横に京都所司代・板倉勝重と重宗父子の供養塔があります。板倉勝重(1545-1624)は三河国に生れ、家康に取り立てられ、駿府町奉行、江戸町奉行を歴任、家康が幕府を開くと京都町奉行(後の京都所司代)に任命されました。
敗訴した者すら納得させるほどの理に適った裁きで名奉行といわれました。重宗(1586‐1657)は勝重の後を継いで30年以上所司代を務めました。散策路の途中に市内が見える場所があります。中央に霊山観音が見えました(右上はその拡大)。
「翹秀軒(ぎょうしゅうけん)」 ここまで紹介した建物は拝観順路にそって南斜面に上から下に並んでいます。この茶室は、紙屋川の渓谷上の見晴らしのよい場所にあります。
翹秀軒には長い軒があり、その下から鷹峰三山や京都市内が見渡せます。左が鷹ヶ峰。右が鷲ヶ峰で、右端にある天ヶ峰は写真に写っていません。
すぐそばに光悦の養子の光瑳(1578-1637)と孫の光甫(1601-1682)の墓があります。光瑳は光悦の従兄弟でしたが、光悦の嫡男徳善が元和9年(1623)に亡くなったため、養子となり後を継ぎ加賀前田家に仕えました。
上の墓から水平な散策路に沿って庭の東に来ると、鷹峰三山が見渡せます。右端の小さく見えるのが天ヶ峰で、鷲ヶ峰、鷹ヶ峰と続きます。中央の鷲ヶ峰は花札の八月、坊主の絵柄の元になったという説もあります。
養子の光瑳は書を光悦に学び、門人中随一の能筆といわれましたが、謙遜して短冊一枚書かなかったそうです。また、刀剣の研ぎに関してはすべての工程で名人といわれました。散策路の東の端にある「本阿弥庵」と待合。
光甫(こうほ)は光瑳の長男で、家職である刀剣の鑑定に加えて、茶道、書画、陶芸、彫刻に優れ、光悦の遺風を継ぎました。家業では光悦を越えるともいわれました。晩年には楽焼のほかに信楽焼を多く作り、空中信楽と称されたそうです。
光甫は81歳で亡くなりました。その直前に光悦村は幕府に返却され鷹峯村に吸収されましたが、光悦寺だけが現在まで残されています。
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コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
京都の街を眺めることが出来たのですね。
霊山観音ですが写真から分かりませんが
拡大してもらうとよく分かります。
ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2024年12月 2日 (月) 00:03
★ゆーしょーさん こんばんは♪
カメラを買い替えたので、肉眼では見えないものも画像を拡大して分かるようになりました。
投稿: りせ | 2024年12月 9日 (月) 23:47