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2024年11月10日 (日)

萬福寺 史跡と由緒ある樹木たち

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日記事にした萬福寺には様々な遺跡や由緒ある樹木があります。上は奈良街道に面する総門です。

総門の正面に一対の井戸「龍目井」があります。江戸時代の寛文元年(1661)に隠元が掘り当てたとされ、萬福寺を龍にたとえてその目に当たります。

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もう一つは普茶料理の「白雲庵」の前にあります。かなり離れているので一枚の写真に納まりません。

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「駒蹄影園(こまのあしかげえん)址碑」 鎌倉時代、栂尾高山寺の明恵上人は、栄西から贈られた茶の種を栂尾で育て、より栽培に適した宇治の地へ移植しました。この場所がその茶畑の跡で「宇治茶発祥の地」とされます。歌碑にもなっていて、

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明恵上人「栂山の尾の上の茶の木分け植えて跡ぞ生うべし駒の足影」 上人は馬を畑に乗り入れ、里人に蹄の跡に種を蒔くように教えたといいます。この歌碑は1926年に明恵の功績をたたえ、宇治郡茶業組合によって建立されました。

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総門を入った右の「放生池」は寛文4年(1664)に造営されました。ここで行われる「放生会」は、捕まえた魚を放し、万物の生命をいつくしみ、殺生を戒め、秋の実りに感謝する儀式です。

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この放生池に逸話があります。萬福寺の造営には多くの人々が駆り出されました。ところがそれぞれ仕事があるので、皆やる気がでません。そんな時に隠元禅師がやって来て放生池の場所を掘るようにいいました。

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すると水が湧いてきました。さらに掘っていくと中から石塔が出てきて「無隠元晦(むいんげんかい)禅師」と書かれていました。(下は池の横に新しく造営された庭園「水廊」の落成記念碑)。

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そこで現場監督に当たるものが皆を集めて、「これは隠元がいなければ晦(くら、暗)い」と読み「隠元禅師無しには五ケ庄は栄えないのだ!」と激励したそうです。(水廊は平成19年に伏見の山田造園が造園した回遊式庭園です。)

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人々は「そうか、隠元禅師はここに来るべき人だったのか。隠元禅師のためにお寺を建てなければ!」と、やる気を出してすぐに萬福寺が完成したといわれています。

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「隠元やぶ」 隠元が日本に伝えた孟宗竹(もうそうちく)の林で、宇治市名木百選に選ばれています。

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三門の横に、江戸時代の女流俳人・菊舎(きくしゃ)の句碑「山門を出れば日本ぞ茶摘み唄」 が立っています。菊舎は24歳で夫と死別して、萩の清光寺で出家し、芭蕉を慕って諸国行脚の旅に出ました。寛政2年(1790)に萬福寺を訪れ、

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「萬福寺の噂を聞いて信じられなかったが、実際に参拝すると本当に中国にいる心地がした」と述べてから詠んだ句が「山門を出れば日本ぞ茶摘み唄」。碑は大正11年(1922)に建立されましたが戦時供出され、平成18年(2006)に再建。 

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三門をくぐって天王殿の前に「開山大師手植菩提樹」があります。葉は両側の松の木で隠れています。

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菩提樹の向こうの「鎮守社」は、もともとこの地にあった地主神社だそうで、まずこちらにお参りしてから仏堂に行くのが本来の参拝の方法ともいわれています。

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「黄檗樹」 和名はキハダで「黄檗宗」や「黄檗山」の由来となった樹木です、初夏に黄色い花をつけ樹皮は染料や薬用に用いられます。役行者由来の胃薬・陀羅尼助の主原料がキハダです。回廊の南西角にあり、塀の向こうは文華殿です。

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大雄宝殿の前に、大正4年(1915)河口慧海(えかい)帰朝と大正6年隠元禅師大遠諱を記念してヒマラヤ杉が植えられています。慧海は、黄檗宗の僧侶でしたが、仏教学者・探検家でもありました。

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仏陀本来の教えを知るため、梵語の原典とチベット語訳の仏典を求めて、明治33年(1900)日本人として初めてチベットに入国しました。その探検記『西蔵旅行記』は大きな話題となりました。2度目のチベット探検から帰国した記念です。

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「怨親平等塔」 日中戦争の戦禍の犠牲になった両国の精霊を慰めるため、当時の山田玉田和尚が妙法蓮華経を宝篋印塔内に納めたものです。大雄宝殿の左(北)の回廊横にあります。

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萬福寺の諸堂の完成をまたず隠元は延宝元年(1673)に亡くなり、宝永6年(1709)に後水尾天皇から贈られた戒名「特賜大光普照國師塔銘」が刻まれた石碑が建立されました。「石碑亭」(重文)の中の亀趺の上にその石碑が乗っています。

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「合山鐘(がっさんしょう)」 元禄9年(1696)に第6代住持の千呆性侒(せんがい しょうあん)が再鋳した雲文梵鐘です。開山堂、寿蔵、舎利殿で行われる儀式の出頭時にのみ鳴らされるそうです。

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境内の北西にある「中和園」 隠元が幕府から賜った土地は、かって近衛家の邸宅があった場所です。近衛家は、藤原摂関家の忠通を祖に持つ「五摂家」の一つ。

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近衛家の当主・前久(さきひさ)の娘・前子(さきこ)は、後陽成天皇の女御(中和門院)となり、後水尾天皇を生みました。後水尾天皇は隠元禅師に深く帰依し、寺を創建する際に母の別邸(実家の近衛家の邸宅の一部)を提供しました。

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この付近は、昭和47年(1972)に庭園・中和園として整備されました。中和門院の別邸の井戸は「中和井」と呼ばれていて、この庭に復元されました。

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「香椿(チャンチン)」 隠元が中国から持ち込んだとされ、葉はタマネギに似た香りがして、中国やマレーシアでは若い芽を炒め物にして食べるそうです。やせた土地でも良く育ち、今では寺社の境内でよく見かけます。

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三門の内側の「旃檀林」の扁額は6代住持千呆の筆です。千呆は黄檗流の能書家で知られ、萬福寺の前に住した長崎が飢饉に見舞われると托鉢を行い飢えた人々に粥を施し、再度の飢饉では書画を売り大鍋で多くの人々に粥を施しました。

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この鍋は万人鍋と呼ばれいまも現存しているそうです。後に幕府の寄進を得て石峰寺を開山しました。お帰りの際には、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。

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コメント

こんばんは。ゆーしょーです。
萬福寺の総門、三門素晴らしいです。
ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2024年11月11日 (月) 00:57

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