« 川端通を歩く 四条から団栗通まで | トップページ | 鞠小路通を歩く 今出川から東一条通 »

2024年11月14日 (木)

萬松院と龍渓禅師

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

Anl_1161a
※写真は全てクリックで拡大します。

先日、萬福寺の境内を巡ったあと、山外にあるいくつかの塔頭を訪れました。題名の龍渓性潜(りゅうけいしょうせん) は妙心寺の住持になった臨済僧で、初めて隠元の法を嗣いだ日本人僧です。

萬福寺塔頭の「萬松院(ばんしょういん)」は、江戸時代の1670年、東巌禅師によってその師・龍渓性潜の塔所として開創されました。萬福寺の駐車場の正面にあります。

Anl_1164a

東巌禅師は江戸時代の黄檗宗の僧ですが、生没年ほか詳細は不明です。以下では、萬松院の境内をめぐりながら、龍渓性潜の生涯をたどります。

Anl_1165a

龍渓禅師(1602-1670)は京都に生まれました。父は奥村清三郎、母は三好氏の連歌師紹欽(しょうきん)の娘だといいます。生まれつき病弱で父母は常に神仏に子の健康を祈りました。(山門の右手に不動堂があります。)

Anl_1167a

この不動尊は金運あらたかとされ、「金成不動尊」と呼ばれています。荒廃した不動堂を寂門道律(じゃくもん どうりつ、1651-1730)が再興し、「宇治十三社寺まいり」の一つとなっています。

Anl_1169b

不動堂の扁額は黄檗52代道元仁明(じんみょう、1877-1966)の筆。道元は宮津市出身で、佐賀・普明寺、滋賀・正明寺、塔頭・萬松院の住職を務め、若くして中国・インドの仏跡をたどりました。

Anl_1168a

男児は5歳のとき急病になり、死んでしまったと父母は泣き悲しんでいました。そのとき、通りがかりの托鉢僧が子供の腰のあたりに灸をすえると蘇生したといわれます。(童姿の六地蔵が祀られていました。)

Anl_1172a

8歳のとき東寺にあずけられ、真言密教を学びます。その後、叔父の一人が男児を見て、並外れた気まがえを持っているので、禅門に入るべきだと勧めました。(六地蔵の台座の下に可愛い笠地蔵がいました。)

Anl_1173a

16歳のとき摂津国・普門寺(臨済宗)第9代籌室玄勝(ちゅうしつげんしょう)のもとで出家し、宗琢と称しました。1620年師が没したため19歳で普門寺の住持となりっました。(一昨年造立された「吉祥蓮華観音」)

Anl_1175a

その後、龍安寺の伯蒲慧稜(はくほえりょう)に参禅して龍渓宗潜と改め印可を受けました。印可(いんが)とは師僧が弟子に法を授けて、悟りを得たことを認定することです。

Anl_1186a

1627年の「紫衣事件」では師・伯蒲に従い活躍します。紫衣は高徳の僧が朝廷から賜り、朝廷の収入源の一つでした。幕府はこの権限を取り上げようとして禁令を出し、これを無視して後水尾天皇が与えた紫衣の返還を命じたのです。「滝行の塲」

Anl_1181a

後水尾天皇は反発し、一部の大寺の僧侶たちは幕府に抗弁書を提出したり、金地院崇伝に働きかけました。「不動明王」、右の脇侍は「衿羯羅童子(こんがらどうじ)」、左は「制多迦童子(せいたかどうじ)」。

Anl_1182a

幕府は反抗した高僧を流罪に処しましたが、1632年には処分を撤回、取り上げた法衣も返却されました。(境内の高台に開山塔の「天光塔」があり、後水尾天皇の寄進です。)

Anl_1174a

伯蒲の没後、龍渓禅師は龍安寺の塔頭・皐東庵(こうとうあん)を自坊とし、妙心寺の首座、普門寺住持を経て、1651年に妙心寺住持となり紫衣を賜りました。その後、退隠して普門寺に戻りました。

Anl_1187a

1654年に隠元禅師が来日するとその弟子になり、1657年には後水尾天皇の帰依を受け大宗正統禅師の諡号を賜りました。龍渓禅師は幕府にも働きかけて寺地を確保するなど、隠元禅師を日本に引き留めて萬福寺の建立を助けました。

Anl_1189a

実は、紫衣事件は幕府が禅宗寺院の戒律や住持の選任方法が乱れていると問題にしたことが発端でした。より厳格な戒律を求めて禅宗を改革しなければならないと考える僧侶たちが隠元禅師のもとに集まりました。

Anl_1191a

1663年隠元禅師より印可を受け諡号を性潜に改め、1664年には後水尾法皇の勅願寺の日野・正明寺の住持となります。1669年には日本人初の隠元禅師の嗣法者となりました。

Anl_1197a

本堂には、直原玉青(1904-2005)筆の60面の障壁画があります。通常非公開ですが、事前に予約すれば拝観可能とのことです。各部屋ごとにテーマが違い、龍、虎や獅子などが力強く描かれているそうです。

Anl_1200a

1663年拙道和尚は、衢壌島(大阪市西区)の新田鎮護と五穀豊穣を祈念して、九嶋庵という草庵を開きました。1670年8月15日拙道和尚は師の龍渓禅師を迎え、入仏開堂の法要が行われました。『摂津名所図会』(1796年)

Img_210827b

九島院の霊亀山という山号は、その時大きな海亀が花を背負ってきて祝福したという吉瑞に由来するそうです。8日後に台風・大津波が来襲。この時も龍渓禅師は入仏開堂の法要を執行中でした。

Anl_1198a

洪水の中で拙道和尚らが避難を求めるも応じず、龍渓禅師は生死は数(さだめ)なりと偈(げ、仏教における詩句)を書いて箱におさめ、法要を続けました。水が引いた後に禅堂に坐したままで亡くなっていたといいます。

Anl_1199a

龍渓禅師享年69。遺骨は先ほどの開山塔に納められています。怒涛の中で龍渓禅師がしたためた遺偈(いげ、禅僧の遺書)は祥雲山慶瑞寺(高槻市)に残っているそうです。「玄関」

Anl_1203a

本堂内陣の右隣(書院)の襖絵に「龍渓禅師水定の図」が描かています。最後の写真は萬松院の前にある土産物・普茶料理の「萬松閣」、前にある亀石は奈良県吉野郡天川村で採石されたそうです。

Anl_1210a

お帰りの際には、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。

★こちらを是非よろしく→   ブログ村→にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
-------------------------------------------------------------------

Anl_1212a

|

« 川端通を歩く 四条から団栗通まで | トップページ | 鞠小路通を歩く 今出川から東一条通 »

コメント

こんばんは。ゆーしょーです。
めちゃくちゃ可愛い
六地蔵さんですね。ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2024年11月15日 (金) 00:02

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 川端通を歩く 四条から団栗通まで | トップページ | 鞠小路通を歩く 今出川から東一条通 »