三千院門前通りを歩く
過去の全記事 2006年1月27日から毎日更新しています。
昨日の記事に続いて、三千院の門前通りを歩きます。TOPの左端に「後鳥羽天皇・順徳天皇 御稜参道」の石標があり、この通りは両天皇の大原陵への参道でもあります。門前通りは右(東)に三千院の石垣、左(西)にお店が並んでいます。
通りはかなりの混雑で、カエデは昨日の参道よりもかなり色付いていました。全ての葉が紅葉するにはまだ日数がかかりそうです。
門前通りの南端は「芹生茶屋 そば処」。麺類各種、おでん、とろろが入った定食などがあり、お手頃な値段です。芹生茶屋は昨日の料理旅館「芹生」の経営で、旅館の方からも入ることができます。」
「芹生茶屋 甘味処」 みたらし、わらび餅、ぜんざい、あんみつ、ところてんなどがあります。ちなみに、「芹生」は京都の北山にある山里の名で、そこに広がる原生林は京都大学の演習林になっています。
「心の里 心繋(きずな)」 京土産のお店で、豆柴忍者のグッズ、清水焼や京焼の器やアクセサリー 、木製の器や箸、トートバックなどがあります。
「土井しば漬け本舗 三千院前店」 しば漬け以外に、浅漬け、木の芽煮、佃煮、山椒ちりめん、志そちりめんなどのしそ製品、お土産用のセットもあります。
向かいに小塙(こはなわ)徳女の句碑「魚山の名ここに千年冬木立」。魚山とは三千院の山号、小塙徳女は明治から昭和にかけての女流俳人で、かって三千院門前にあった料亭「四季の茶屋」の女将でした。
三千院の表門「御殿門」、後で訪れることにして先を急ぎます。
「森善 京の名品館」 京土産のお店で、その奥にお食事処「おのみやす 大原店」があります。清水寺の参道でよく見かけるお店の構造です。こちらは、鯖寿司定食が人気だそうです。
三千院の「山門」前の左右に「生きてごらんなさい桜」があります。工藤直太郎氏は英文学者の文筆家で、百歳を越えて家族のほとんどが先に逝っても、その文章は乱れを見せず格調高いものだったそうです。
その生きざまに感銘を受けた民謡研究家・竹内勉氏は「生きてごらんなさい 百歳の手紙」という書を出版。竹内氏と親交があった小堀光詮前門主は、工藤氏をしのんで境内の桜にこの名を付けました。右は大原観光保勝会が設置した「大原女石像」。
「京美茶屋」 和食のお食事処、店内で作っている湯葉の料理が名物で、ゆばづくしコース、麺類に湯葉を組み合わせた定食も多数あります。湯豆腐もあります。
こちらも店の横に甘味処があり、チーズケーキ、ぜんざい、抹茶わらび餅、コーヒー、甘酒などがあります。生ゆば、くみあげゆばの販売もしています。
門前通りのはずれにある「三千院の里」 見晴らしがよい和食のお店でしたが、数年前から開いているところを見ていません。
店の前に「鉈捨薮跡(なたすてやぶあと)」の碑 文治2年(1186)の勝林院での大原問答の折に、法然上人の弟子の熊谷直実(くまがいなおざね)(蓮生坊)は、上人を守るために袖に鉈を隠し持っていました。
師の名声が好ましくないという過激な僧徒に襲われるかも、あるいは論議にもし敗れたら法敵を討つつもりだったのかも知れません。しかし、上人に見つかり、ここで鉈を薮に投げ捨てたと伝えられています。ちなみに、鉈とは小刀のことのようです。
「律川(りつせん)」にかかる小橋を渡ります。理由は分かりませんが、こちら側には「末明橋」、向う側には「茅穂橋」と書かれています。
律川は三千院の境内の北を流れてきます。三千院と参道の南を流れる「呂川(ろせん)」と合せて、「呂律」ということばは、この地で盛んに行われた声明(しょうみょう)の節回しのことです。
橋を渡った右手に「後鳥羽天皇大原陵・順徳天皇大原陵」があります。後鳥羽天皇(1180- 1239)は高倉天皇の第4皇子で、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての天皇です。
後鳥羽天皇は土御門、順徳、仲恭と3代23年間にわたり院政を敷き。殿上人を整理して院政機構の改革を行いました。一方で、 文武両道で新古今和歌集の編纂でも知られます。「宮内庁書陵部月輪監区大原部事務所」、職員が常駐しています。
順徳天皇(1197-1242)は後鳥羽天皇の第3皇子で、有職故実研究に傾倒し、幕府に対抗して朝廷の威厳を示す目的もあって『禁秘抄』を著しました。後鳥羽上皇は、鎌倉時代の承久3年(1221)鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げました。
しかし、幕府の大軍に敗北して上皇は隠岐に、順徳天皇は佐渡に流され、それぞれ配流先で崩御。後の1241年、上皇皇子・尊快入道親王と母・修明門院が、摂津の水無瀬離宮の建物を法華堂として移し、ひそかに持ち帰った遺骨を納めました。
両天皇は遺灰となってようやく再会しました。法華堂は明治の神仏分離令によって天皇稜と分離され間に柵があります。二人は配布先で多くの歌を詠んています。後鳥羽院「我こそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き波風 心して吹け」
藤原定家は幕府への配慮から、新勅撰和歌集には順徳天皇の歌を採用しませんでしたが、私的な『小倉百人一首』に、順徳院「ももしきや 古き軒端のしのぶにも なほ余りある昔なりけり」を採録しました。
最後の写真は門前通りの突き当りにある勝林院ですが、今日はここまでです。お帰りの際には、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。
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コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
三千院へは2回行っているのですが
そのほとんどを忘れてしまいました。
三千院の門前通りの雰囲気が大好きです。
店の前に赤い毛氈を敷いた椅子を出したり
赤い傘を取り付けたりメチャいい雰囲気です。
投稿: ゆーしょー | 2024年11月22日 (金) 23:54
ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2024年11月23日 (土) 00:18