常照寺 吉野大夫と帯供養
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昨日は鷹峯(たかがみね)に行ってきました。最初に訪れたのは「常照寺」、山号を寂光山という日蓮宗総本山身延山久遠寺の直末です。直末(じきまつ)とは、本山直轄の末寺のことで、末寺では最上位に位置します。
上と下は「吉野門」とよばれ、島原の吉野太夫の寄進により建立され、大正6年(1917)に再建されました。
元和元年(1615)本阿弥光悦は徳川家康から鷹峰の地を拝領、一門とその家職につながる工匠や商人を引連れて移住してきました。下は境内図で、本堂にお参りしてから、ほぼ左周りに境内をめぐります。
「帯塚」は昭和44年(1969)に在京の著名人によ って建立、作庭は中根金作で苔により鷹峰三山を表現したそうです。5月の帯祭では、帯供養と帯風俗行列が催されます。左に昭和54年に建立された時代風俗研究の権威「吉川観方氏小直衣の像」があります
「宝蔵」 左の石碑には日蓮聖人が四条金吾への返書で書いた言葉「蔵の財よりも身の財すぐれたり、身の財より心の財第一なり」、宝蔵の横にあるのがちょっと皮肉です。
本阿弥一族や工匠、商人らが鷹峯に移住してきた翌年、本阿弥光悦と光瑳の親子はここに「法華の鎮所」を建立し、鷹峰で布教していた寂照院日乾上人を開山に招きました。
日乾上人は鎮所を「寂光山常照寺」と号し、僧侶の学問所「鷹峰檀林」を創設したので、当時は「常照講寺」とも呼ばれました。「本堂」はかっての講堂を改築したもので、本尊として十界大曼茶羅を安置しています。
鷹峰壇林は山城六壇林の一つで、数万坪の境内には、講堂、衆妙堂、玄義寮、妙見堂など30余棟の堂宇が並び、数百人の学僧が集い、鷹峰一帯の中心的なアカデミーともいえる場所でした。
檀林の学僧は13年以上も入寮して、学業をはじめとして様々な教育を受けました。檀林は明治5年(1873)の学制発布まで続きます。お茶席が出ていて、 奥の「鬼子母尊神堂」には子育て、子授けの守護神です。
「常冨(つねみ)大菩薩殿」 江戸時代の享保年間に、学寮でしばしば不思議なことがおこりました。学頭の日善が、常人と違うと噂されていた智湧という学僧の部屋を覗くと、白狐が一心に書を読んでいたそうです。
姿を見られた白狐の智湧は寺を去り、摂津の妙見山で修行を行って常富大菩薩となったとされます。智湧が去る際に壇林首座宛に書き残した道切証文と起請文の末文には爪の印があり、霊宝として寺に保存されているそうです。
常冨大菩薩殿の隣にある「妙法龍神社」は河川や雨を司る龍神を祀ります。
妙法龍神社の裏のくぼ地に白馬池への門があります。かって寺の北山にあり、霊池とされていた池を、平成21年(2009)に復興したものです。
その昔、その池に仙人が住み、白馬で往来したという伝説から「白馬池」と呼ばれるようになったそうです。かなり深い谷に下りていきます。
池の周囲には桜とモミジが植えられ、神秘的で境内で最も美しい場所です。あまり知られておらず、訪れる方がほとんどいないのが残念です。
池のほとりには、「白馬観音」が祀られています。白馬に乗り、池を往来していたという仙人を白馬観音として法華勧請した像で、江里敏明氏の作です。法華勧請とは法華宗の守護神として祀ることだそうです。
ところで、「吉野太夫」は京都の太夫(芸妓)の名跡です。山門を寄進したのは2代目で、その後10代まで続いたそうです。初代の吉野太夫は安土桃山時代の人で、本阿弥光悦などの文化人と交流があったとされます。(境内に戻りました。)
2代目は西国の武士の娘として育ちましたが、故あって島原の芸妓となりました。名妓といわれ、最上位にあっただけではなく教養が高く、詩歌、管弦、 茶の湯、香道の諸芸に秀で、上流階級の社交場の花とうたわれました。茶室の「聚楽亭」。
吉野大夫とのロマンスで名高い灰屋紹益は豪商で文化人でもあり、後の関白、近衛信尋(のぶひろ)と争い大夫を身請けして妻としました。紹益22歳、吉野太夫26歳でした。父は本阿弥光悦の甥・光益、死別した最初の妻は光悦の娘でした。茶室「遺芳庵」。
灰屋は紺染めに用いる灰を扱って巨万の富を築いた屋号です。紹益はその後を継ぐべく養子となりましたが風雅の道を好み、井原西鶴の『好色一代男』の主人公・世之介のモデルともいわれました。
「吉野窓」、吉野太夫が好んだ円窓で下の部分が直線に切られているのは、まだ悟りに至らない不完全な円を表しているとされます。吉野太夫が自らを戒めて円を欠いたともいいます。
紹益は人気の吉野大夫を妻に娶った嬉しさを詠んで「ここでさへ さぞな吉野の 花ざかり」。当初、父の紹由は遊里の女を身請けした紹益に愛想をつかして勘当しましたが、その後吉野太夫の人となりを知って紹益の勘当を許したそうです。
しながら、吉野大夫は寛永20年(1643)38歳の若さで亡くなり、縁のあるこの寺に葬られました(上の墓)。小さな墓地の中央に「開山堂」があり、開山・日乾上人の五輪塔が祀られています。 ケヤキの扉には珍しい形の五七の桐が彫刻されています。
「吉野太夫と紹益の比翼塚」 比翼塚とは、愛し合って死んだ男女を一緒に葬った塚のことだそうです。右の歌碑は紹益が吉野大夫を葬ったときに詠んだ歌「都をば 花なき里となしにけり 吉野を死出の 山にうつして」。
ところで、上述の「帯供養」は、役目を終えた帯など和装品を供養するために、川島織物セルコンの社内行事として行われてきました。創業180周年の昨年、記念行事として初めて一般の方に供養する帯を募集、希望者に参列していただいたそうです。
今年の11月23日(土)に『寂光山常照寺 帯供養』が行われました。この場合の供養とは帯が出来上がるまでの様々な生き物の命や人の想いに感謝することだそうです。(上は川島織物のHPからの転載、下は帯塚。)
今年は川島織物と常照寺が主催・協力という形で、希望者が帯や帯の写真を持参して常照寺に参加する形で開催されました。なお、毎年4月には『吉野大夫花供養』が行われています。
このあと、源光庵に向かいました。お帰りの際には、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。
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コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
常照寺の山内案内図はよく分かりいいですね。
吉野門と本堂は一直線上にあり、ほとんどの
お寺はこの形式になっていますね。
吉野大夫は当時かなり権力を持っていたのでしょうか。
立派なお墓もありますね。
ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2024年11月27日 (水) 00:26