三千院 秋の庭園をめぐる
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一昨日の大原・実光院を訪れた後、三千院まで戻ってきました。上の「御殿門」は堅牢な城門のような造りと高い石垣で、かっての門跡寺院をしのばせる風格があります。左上に拝観入口の「庫裏」があります。
「三千院」は山号を魚山(ぎょざん)という天台宗の寺院で、三千院は明治になってからの名称です。 奈良時代の延暦年間(782‐806)に伝教大師最澄が比叡山東塔に築いた円融房(えんにゅうぼう)に始まり、その後慈覚大師円仁に引き継がれました。
平安時代後期以来、皇族が住持を務める宮門跡となり、寺地は比叡山内から近江坂本、京都市中と移動しました。上は拝観入口のばにある「坪庭」、下は「玄関」から外。
「客殿」は安土桃山時代の天正年間(1573-1592)の建立で、御所の修復の際に豊臣秀吉から提供された紫宸殿の余材が使われたといいます。 客殿の南に広がる庭は「聚碧(しゅうへき)園」と呼ばれる池泉鑑賞式庭園で、作庭者は不明だそうです。
この庭は自然の地形を利用していて、池には音無しの滝の水が律川を経て流れ込んでいます。 こちらの南側の縁側は有料のお茶席になっています。三千院は山の東斜面の台地に建てられています。草に覆われた蹲(つくばい)
聚碧園は江戸時代の茶人・金森宗和が美しさに感動して自ら手を加えたといわれ、彼が作庭したという説もあります。(円融房への廊下から)
三千院は、移転するつど寺名も円融房から、梨下房、円徳院、梨下門跡、梶井門跡と変わりました。 に行きます。(11月のお茶席は混雑するので予約はできず、当日の申込だけだそうです。)
池や石組、石造品の配置は、禅宗の庭のような特別な意味はないようです。左に客殿の西にある「円融房」と渡り廊下が見えます。現在の円融房は収蔵庫と展示施設を兼ねた新しい建物です。(山側の縁側に出てお茶席の横から)
明治維新後、門跡の昌仁法親王は還俗して新たに梨本宮家を起こしました。梶井門跡の仏像や仏具類は大原にあった政所に移され、新たに三千院と称して現在に至ります。客殿から宸殿にいく渡り廊下の途中にある「清浄水」(左)と「法洗心」。
「宸殿」は三千院の最も重要な法要である「御懴法講(ごせんぼうこう)」の道場として、大正15年(1926)に建てられ、本尊・薬師瑠璃光如来が安置されています。
東の「虹の間」から、正面のシャクナゲは既に花がありません。
宸殿から庭に降ります。拝観入り口から各自の靴を持ってきて、帰りは建物には上がらず西門から出ます。拝観経路は、正面にある往生極楽院の左右に回り込みます。
この庭は池泉回遊式庭園の「有清園」、その名は中国南朝宋の詩人・謝霊運の「山水有清音」という句に由来するのだそうです。庭には石仏が何体も置かれています。
三千院は山の斜面に建てられ、境内は門前通りからさらに高く4段になっています。聚碧園が一番下、この庭は2段目になります。「宸殿」の方を振り返って。
往生極楽院で散策路は左右に分かれますが、山側の道を通ることをおススメします。山側の斜面にある滝からの水が池に流れ込み、亀島と思われる中の島があります。
上の3番目の台地から滝が流れ込んでいます。
斜面に地蔵菩薩がいました。
「往生極楽院」(重文) 平安時代中期の986年、恵心僧都源信(942-1017)が父母の菩提のために、姉の安養尼とともに建立しました。
「朱雀門」 往生極楽院の正面にある朱塗りの門で、かって極楽院が本堂だった頃の正門にあたります。呂川沿いの道に面しています。
三千院では10月28日(月)~11月28日(木)の期間「もみじ祭」が開催されていて、紺地金泥の特別朱印(左)が授与されます。また、円融蔵では国宝・阿弥陀三尊(阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩)の特別御朱印(右)が授与されます。
有清園の南東の苔地に、石彫家の杉村孝氏の作品「わらべ地蔵」が置かれています。杉村氏は昭和12年(1937)藤枝市の石材店の三男に生まれ、全国的に認められたのは50歳近くからです。
故郷の山奥の不動峡に8年かけて巨大な不動尊の像を刻み、強い反骨精神の持ち主で熱心な平和運動家でもあります。杉村孝氏のことを知ると、あどけないわらべ地蔵も強い意思をもっているように見えます。
最後の写真は「弁天池」に流れ込んでいる「延命水」。お帰りの際には、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。
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