百万遍周辺を歩く
過去の全記事 2006年1月27日から毎日更新しています。
昨日は百万遍の周辺を歩きました。上は知恩寺の「総門」(重文)。寛文2年(1662)建立、知恩寺が広小路にあった時に西向きの総門であったものが類焼を免れ、移築されて現在は南向きの総門として使用されています。
「百万遍知恩寺」は浄土宗大本山の一つです。法然上人の弟子・源智上人が、師の遺跡であり下鴨神社の神宮寺の「功徳院」を師の恩徳を偲び「知恩寺」としたのが始まりです。総門の横にある地蔵尊。
「御影堂」(重文) かっては開山堂ともよばれ、法然上人像を祀る知恩寺最大の建物です。ブロワーで落葉を掃除していて土埃が舞っていたので、これ以上近づかないで今出川通を東に歩きました。
下のGoogleMapで、中央少し上の東西の通りが今出川通、左は鴨川で中央少し左が東大路通です。知恩寺は二つの交差点の北東角にあり、知恩寺の正式名称から交差点は百万遍と呼ばれています。中央のピンクの部分は京都大学の吉田キャンパスです。
下は明治25年(1892)の古地図(仮製図)で、幕末からあまり変わっていないと思われます。ほとんどが田畑で、中央の四角い部分は「尾張藩邸」の跡で、現在は京都大学の吉田キャンパス・本部構内になっています。
下は大正元年(1912)の正式図で、中央の尾張藩邸跡が京都帝国大学、その下は江戸時代には田畑だった区画で第三高等学校(現在は吉田南構内)となっています。
大正12年(1923)には京都市からの寄附金などによって買収した田畑・宅地を用地として、農学部が設置されました。上の古地図では右上の田畑地です。現在は吉田キャンパス・北部構内となっていて、下はその表門です。
昭和28年(1953)には新制大学院が設置され、北部構内には理学研究科、農学研究科、いくつかの研究所などがあります。北部構内のこの南北の道はイチョウ並木ですが、黄葉が始まったばかりのようです。
「理学研究科6号館」の内庭、桜が紅葉していました。このあと、鴨川や高野川にも行きましたが桜がきれいには紅葉しておらず、撮影は断念しました。
南北の道の突き当りは「御蔭通」で、その手前の左(西)には農学研究科の附属農場があります。ここで右に曲がって東に向かいます。
「旧演習林事務室」 昭和6年(1934)に建設され、スパニッシュ瓦葺、ベランダをめぐらしたバンガロー風の木造建築です。天井の意匠などモダニズムの清新さ溢れる建物として、平成10年(1998)に国の登録有形文化財に指定されました。
平成22(2010)年度に外観はそのままに耐震補強工事および内装修繕工事を行い、学生相談センター北部相談室になっています。
右は「北部総合教育研究棟」、その横の道を行くと北部グラウンド(農学部グラウンド)です。
「湯川記念館」 湯川秀樹が日本人として初めてのノーベル物理学賞を受賞したことを記念して昭和27年(1952)に建てられ、翌年基礎物理学研究所が設立されました。ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英氏はこちらに所属していました。
北部構内の車両入構入口と進入路(アプローチ)、門衛がいます。
車両進入路を出ると今出川通です。向うの三角緑地の先はかっての山中越(滋賀越道)、上のGoogleMapの左下から右上の道で、本部構内によって途切れています。明治25年の古地図から、尾張藩邸の敷地の中を街道が通っていたようです。
今出川通を西に少し戻ると、「後二条天皇 北白河陵」と「後二条天皇皇子邦良親王墓」 があります。鎌倉時代後期の第94代後二条天皇(1285 -1308)は、後宇多天皇の第一皇子、母は太政大臣堀川基具の養女の基子(西華門院)です。
京都大学の建造によって、その地にあり受難にあった地蔵尊にまつわるいくつかの伝承が残っています。田中貢太郎の『天狗の面』には「京都大学の祟地蔵」という怪談があります。
その一つが北部構内の南東の角にある「祟地蔵」です。大正8年(1919)京都大学では動植物学教室を建設するために、この場所の土地を購入して、地均(じならし)の工事をすると、地の中から石地蔵が何体も出てきました。
「石地蔵では石垣にもならず、漬物の押しにしては勿体ない、このような物は捨場にも困る」といって構内の隅へ投げだし、やがてその石地蔵に腰かけて弁当を食べる者もあれば、「石地蔵が何で勿体ない」といいながら小便をかける者もあったそうです。
土方たちが石地蔵を掘り出して粗末に扱ってから間もなく、工事請負人が容体の判らない急病でころりと死んでしまいました。すると誰彼となくそれは石地蔵の祟(たたり)だといいだしました。
大学の方では、「石地蔵が祟るなんて馬鹿なことがあるものか」と一笑にふし、工事はどんどん進捗して堂々たる木造の洋館が完成しました。その時になって、建築にたずさわった大工の棟梁、続いて土方の一人が死にました。
さらに建築部長が死に、樺太に出張していた会計課長は現地で死んだそうです。出入商人の一人が託宣を行う婆さんの家へ駆けつけると「地蔵の祟でまだ6人まで命を奪るといっている。一日も早くお祀りして水は毎日お供えしないと」、
さらに「それに義春と三九郎という古狸がいる。これもよくお祀りをしないと怒っている」といいます。出入商人は飛んで帰り、動植物学教室の建設を主導していた教授に相談を持ちかけたところ、同教授は相手にせず「君たちで然るべくやったらどうだ」といいます。
ところがその教授は病気にかかり、わずか4,5日で大学病院で死んでしまいました。そこで、何人かの教授が寄付をして、出入商人も献金して、200余円でこの場所に2坪程の台場を築いて石地蔵を並べ、狸の祠も作りました。
花を飾り餅や赤飯を供えて厳に祭典を行い、続いて毎年盆の28日に例祭を行うことにすると、その後は何事もなくなったそうです。かっては理学部の事務職員がお世話をしていたそうです。
下の祠は平成9年(1997)に北白川の竹林工務店の寄贈です。新しいお花も供えられていて、今でもお世話をしている人がいるようです。このあと、もう一つの祟地蔵を探しに向かいました。
最後の写真は今出川通の向かいから。お帰りの際には、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。
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コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
大正元年頃の地図ですね。
京都帝国大学、第三高等学校、
医科大学とそれぞれ別だったのですね。
昔の地図を見るのは好きです。
投稿: ゆーしょー | 2024年11月12日 (火) 23:49
ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2024年11月13日 (水) 00:02
★ゆーしょーさん こんばんは♪
古地図と現在の地図を比べるといろいろなことが分かってきて、その場所を歩いていてもその当時の情景が思い浮かびます。
投稿: りせ | 2024年11月14日 (木) 02:53