裏寺町通を歩く その4
過去の全記事 2006年1月27日から毎日更新しています。
昨日の記事の蛸薬師通から再び裏寺町通に入ります。TOPは交差点の南東にある「赤門ビル」で、左の角に「赤門 正覚寺」というプレートがはめ込まれています。
「正覚寺」は戦国時代に貞誉上人によって創建され、その後浄土宗総本山知恩院の末寺となりました。下は赤門ビルにある「セブン-イレブン 京都河原町蛸薬師店」(裏口)。
元和元年(1615)伏見城の赤門が移されたことから、「赤門さん」の通称で呼ばれることになりました。ビルの南西に山門があります(当初の赤門ではありません)。
昭和40年(1965)に火災で堂宇を焼失、平成元年(1989)に5階建ての「赤門ビル」として生まれ変わりました。テナントビルになっていて、入居している店舗は蛸薬師通の記事で紹介しました。
突き当りには「弁天堂」があり、弘法大師空海作といわれる白蛇辨財天が祀られています。昔から今も先斗町など花街の人々の信仰が篤いといわれています。
赤門ビルの5階が、本堂、客殿、庫裏(住居)となっていて、本堂には本尊の阿弥陀如来立像が祀られています。焼失前の本尊から取り出された胎内仏を御前立ちとして安置、脇壇には伝教大師・最澄と法然上人の木像が安置されています。
裏寺町通は、豊臣秀吉の京都改造によって寺町通などと共に造られ、寺町通沿いの寺院の境内が縁日の舞台として利用されるようになると、裏寺町通にも見世物小屋や芝居小屋が見られるようになりました。
しかし、明治の中頃に西隣りに新京極通の繁華街が開通すると、裏寺町通にはお店もほとんどなく文字通りその裏道的な通りになりました。下のGoogleMapで上の東西の通りが蛸薬師通、中央の南北の通りが裏寺町通です。
その後、裏寺町通に人通りが戻り活気を取り戻したきっかけの一つは、昭和45年(1970)にニチイ河原町店として開業した商業施設「河原町ビブレ」(下の写真)でした。
「常楽寺」 安土桃山時代創建と伝えられる浄土宗西山深草派の寺院で、山号を雲松山、洛陽四十八願寺の第30番札所になっています。この地で2回火災に遭っていますが、墓地には土佐藩士の麻田時太郎の墓があります。(正覚寺の向かいです。)
その後、学生が多い土地であることを考慮して、河原町ビブレは平成15年(2003)改装して1階から5階を「京都ロフト」とし、地下1階のみがビブレとなりました。常楽寺の墓地と祠
「称名寺」 浄土宗の寺院。 坂本龍馬や中岡慎太郎が襲撃された醤油屋・近江屋はこの裏(東)にあり、龍馬が寝起きしていた土蔵からは、称名寺に逃げられるように梯子がかけられていました。
しかし当日は母屋にいたので逃げられなかったといわれています。 江戸時代後期の漢方医・書家の有持桂里(1758-1835)の墓があります。文化9年(1812)知恩院門跡の侍医となり、翌年には法橋に任じられ、『方輿輗』の著者として知られています。
「光徳寺」 山号を遍照山という浄土宗の寺院で、開基は宗春、創建年月は不詳です。広い境内の奥にお寺の建物が見えます。本尊は阿弥陀如来です。
ビブレは、ビルの耐震不足が深刻である点や将来的な収益の確保が難しいと判断し、テナントの「京都ロフト」との賃貸契約が終了する平成22年(2010)閉店を決定しました。
「西導寺」 こちらも浄土宗の寺院ですが情報がありません。
ビブレの跡地には、平成27年(2015)に分譲マンション「グラン レ・ジェイド京都河原町」が建設され、1階にはスポーツサイクル専門店「Y's Road」が開業しました(昨日の記事に登場しました)。
「浄心寺」 山号を紫雲山という浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。便利な場所にあるので講演会などの会場に使用されています。このお寺の前に東西の通りがあって、新京極通まで続いています。
中央が裏寺町通、右が新京極に続く通りです。裏寺町が再び活気を取り戻したもう一つのきっかけとなった通りで、このあと立ち寄りました。
最後の写真は正覚寺の弁天堂からみた裏寺町通。お帰りの際には、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。
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コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
セブン-イレブン・ジパンは全国で
2万軒以上もあるので、京都には
沢山あることでしょう。和歌山にも
沢山の店舗があります。
僕も時々利用します。ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2024年11月 3日 (日) 02:52