大沢池 その2 東部の史跡と詠碑
過去の全記事 2006年1月27日から毎日更新しています。
昨日に続いて、今日は大沢池の後半で最初に天神島に渡ります。平安時代初期の天長10年(833)、嵯峨天皇(786-842) は在位中に設営された離宮の嵯峨院に御所と大沢池を造り、太皇太后嘉智子と共に移り住みました。
「茶筅(ちゃせん)塚」、華道の先達への慰霊碑です。
「嵯峨碑」 離宮として嵯峨院が建立された事を示す碑で、昭和34年(1959)に当時の華務長・辻井弘洲の喜寿を記念して建てられ、文字は大覚寺53世草繋門跡の筆跡だそうです。
嵯峨天皇は譲位してから、実子の仁明天皇の国政に頻繁に関与し、自らの遊猟に奉仕した者に叙位を行ったり、小野篁を流罪にするなどしました。 小野篁を流罪にしたのは、朝廷への批判を漢詩に込めて書き、それが朝廷内で問題視されたためだそうです。
菅原道真を祀る「天神社」、道真は、大覚寺創建にあたり清和天皇の上奏文を起草し、仏法の興隆と衆生済度のため僧俗二人の別当を置くように進言。自身も大覚寺の俗別当(俗人の身分のまま寺院を統括する責任者)を務めました。
「嵯峨天皇詠碑」 嵯峨天皇は久しぶりに空海と歓談し、高野山に帰る空海をいつまでも見送っている情景を詠み「与海公飲茶送帰山一首」。左に「いけばな発祥の地」の石標があります。ここは天神島の東端です。
天神島の東端に新しく橋が造られていました。大覚寺は、寺が開かれてから再来年で1150年になるのを記念して、鎌倉時代の絵図に描かれていた橋を再現、2月6日に菅原道真をまつる北野天満宮の関係者が神事をおこない、神楽が奉納されたそうです。
橋を渡った先に紀友則 (845-907)の歌碑「ひともとと おもひし菊を おほさはの 池のそこにも たれかうえけん」。宇多天皇の中宮・藤原温子の菊合で行われた歌合の席上で、友則が大沢池の水面に映る菊を詠んだ歌といわれています。
「梅林」 約150本の梅が植えられ、毎年3月上旬から中旬に見頃を迎えます。あまり知られていない梅林ですが、いくつかの映画の撮影が行われました。また、結婚衣装の「atelier MUKU」では、春にここで撮影をする「梅の大覚寺コース」があります。
「名古曽の滝跡」(名勝)滝殿庭園内に設けられた滝跡。平成6年から奈良国立文化財研究所による発掘調査で、中世の遣水が発見され、復元されました。藤原公任(966-1041)の歌碑「滝の音は たえて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」。
藤原公任の時代には既に滝は枯れて、昔をしのんで「名こそ流れて」(名声だけは残っている)と詠ったものです。この歌のおかげで滝跡が発掘され、伏流水を集めるための方形の石組を設けて滝が復元されました。
「遣水(やりみず)」 当初の素堀りの遣水も、藤原公任が歌に詠んだ頃には半ば埋もれていました。現在では、発掘調査で判明した遺構に基づいて、下流部分が遣水として再生されています。
天神島の東に小さな「菊ヶ島」があります。嵯峨天皇が野菊を手折って器にいけたとされる島です。
左の菊ヶ島と右の天神島の間に「底湖石(ていこせき)」があり、二島一石の配置が華道嵯峨御流の基本形に通じているのだそうです。
この辺りも様々な映画やドラマの撮影が行われました。「鬼平犯科帳9・大川の隠居」では、伊佐次が舟を操り、粂八が料理の支度をする猪牙船を大川に浮かべ、長谷川平蔵らが巨鯉に出会うシーンが撮られました。船の向こうには大覚寺の伽藍が見え隠れしていました。
映画やドラマでさりげなく映る京都の風景を見つけて、どの場所かを想像するのは「京都人の密かな愉しみ」です。大沢池の東の道沿いにはいくつかの詠碑があります。
京都の詩人・臼井喜之介 (1913-1974)の詩碑「花を惜しむこころは いった何なのだろう いくつ齢をかさねたら 心はしずまり ひとり酒汲む静寂に 住むことができるのか 今日も嵯峨御所から 花信が舞ひこんできた」 。
「続・三匹が斬る!・人質の母娘が送る流人舟」では、勘定奉行の画策で連れ出される男を乗せた船が大沢池北東畔から出て、行く手に庭湖石が映りこんでいます。下は先ほど渡った新しい橋と底湖石
鈴鹿野風呂 (1887-1971)句碑「嵯峨の蟲 いにしへ人に なりて聞く」。野風呂は京都帝国大学文学部国文科卒、高濱虚子に師事、後に関西におけるホトトギス派の中軸「京野風呂」を主宰しました。
右に天神島への(以前からある)橋、向こうに心経宝塔、左奥の朝原山(御廟山)には「嵯峨天皇山上陵」への参道が見えます。嵯峨天皇は、自ら国葬を拒み、自分の遺体を山に埋め墓標も作るなといい残したそうです。
平田春一(1894-1973)の歌碑「紅を 少しのぞかせ ふっくらと 椿の蕾 只の一輪」。平田春一は若山牧水に師事した現代歌人です。
その左に 川田順の句碑「わが友の 平田乃大人の おもひもの」、川田順は住友財閥の理事を務め、俳人でもあったようです。上の平田春一の歌碑の建立を祝って詠んだ句です。
船着場が近くなって、大沢池の出口はもうすぐです。北嵯峨の散策はここまでです。
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コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
大沢の池を一周すれば色んなものが見ることが出来るのですね。
時間の都合とはいえ、若い元気なころに一周しておけばよかったです。
投稿: ゆーしょー | 2024年10月14日 (月) 20:26
ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2024年10月15日 (火) 01:20