時代祭2024 前半
過去の全記事 2006年1月27日から毎日更新しています。
昨日行われた時代祭を見てきました。時代祭は京都三大祭りの一つで、平安神宮の神幸祭でもあります。この日の朝、2基の鳳輦(ほうれん)に祭神の桓武・孝明天皇の神霊を載せ、午前中に京都御所の「行在所」に到着しています。TOPは平安騎馬隊。
正午に時代行列が京都御所の建礼門前を出発して平安神宮に向かいます。平安神宮の神幸列はこの時代行列とともに平安神宮に向かい、午後4時の還幸祭で祭神を大極殿の本殿に遷します。私はいつものように堺町御門の横から見学しています。
1.名誉奉行 市会正副議長、府知事、市長、 時代祭協賛会会長、京都商工会議所会頭らが馬車で行進します。(他の神社と異なり神幸列の御旅所はなく、京都御所は途中に滞在する場所で還幸列はありません。)
2.明治維新時代 最初は「維新勤王隊列」の鼓笛隊で、明治維新の際、丹波の国北桑田郡山国村(現:京都市右京区京北)の有志が山国隊を組織し、官軍に参加した当時の行装を模したものです。
動画(YouTube)です。今回は動画をいっぱい撮ったので、もっと載せるかも知れません。
「幕末志士列」 明治維新で活躍した人物がそれぞれの装束で登場します。最初は長州藩士の桂小五郎(後の木戸孝允)、次は西郷隆盛、坂本龍馬の仲介で薩長同盟を結び、江戸城の無血開城も果たした薩摩藩士です。
この列は十数名が行列して全部を紹介できません。坂本龍馬(下の写真)と中岡慎太郎は土佐藩士でともに維新に奔走、暗殺されました。以下、吉田松陰門下の長州藩士・高杉晋作、長州藩士でもあり萩の松下村塾を開いた吉田松陰が続きます。
「七卿落(しちきょうおち)」 八月十八日の政変(1863年)で、倒幕計画に破れた七人の公卿が京都から追放されました。蓑をまとった七卿が長州に落ち延びていく様子です。この事件は「堺町御門の変」ともよばれ、くしくもその門をくぐって外に出ます。
毎年のように見学している時代まつりですが、新しい発見もありました。七卿落の後に続く、吉村寅太郎(天誅組の変で戦死)、安政の大獄で処刑・獄死した頼三樹三郎、梅田雲浜、橋本左内、吉田松陰は、ともに八月十八日の政変以前に死んでいる人々でした。
つぎに、幕末の志士として活躍した公家が続きます。近衛忠熈 (ただひろ)は孝明天皇の左大臣になった後、事変で官を辞して仏門へ入りましたが、後に還俗して関白となりました。ここでは関白の束帯姿で随身と舎人(とねり)を従えています。
三條実萬(さねつむ) 日米修好通商条約への勅許を巡り関白と対立、近衛忠煕と共に参内停止を命じられました。処分に激怒した孝明天皇は両名に参内の勅命を下しました。後に梨木神社の祭神として祀られています。ここでは直衣(のおし)姿です。
3.江戸時代 最初は「徳川城使上洛列」 徳川幕府は大礼、年始等の際には必ず城使を上洛させ、皇室に対して礼を厚くしました。長持を担いだ一団が先頭で、観客に愛そうをふりまきます。
一団の一人が観客に向かって「ここからは動画で撮影をお願いします!」、いうので慌ててカメラを動画にしました。
城使には、将軍家の名代として親藩あるいは譜代大名が選ばれました。特にご即位の大礼には煌びやかな装いをした多数の従者を伴った豪華な行列でした。槍持、傘持、挾箱持の掛け声や奴のパフォーマンスがみどころです。
参勤交代の大名行列のようですが、こちらは京都あるいは朝廷を中心としてみた時代風俗です。城使が乗る駕籠や、朝廷に献上する品々が続きます。
「江戸時代婦人列」 京都にゆかりのある江戸時代の著名な女性たちです。和宮の御輿が先導します。和宮は孝明天皇の皇妹で、江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室として嫁ぎました。先日記事にした中山道(木曽路)を通って江戸に向かいました。
蓮月 江戸時代の女流歌人です。最初の結婚で生まれた3子をすべて亡くし、夫も死別。再婚した夫も亡くし、尼となり蓮月と称しました。その後自作の歌を彫った焼き物が流行し財をなしました。飢饉の際には人々に施し、私財で丸太町橋を架けました。
玉瀾 祇園に生まれ池大雅の妻となり、閨秀画家として南画に女性らしい優しさを表現しました。夫の死後は独自の画風を突き詰めていきました。後で母親のお梶の養女(祇園梶女)も登場します。
中村内蔵助妻 京都銀座の富豪・内蔵助の妻で、妻女の衣裳比べの会で評判となりました。他の妻女は色鮮やかな衣装まといましたが、白無垢に最上級の黒羽二重の打掛け姿で現れ、かわりに侍女たちに豪華絢爛な衣装をまとわせる演出をしました。
祇園梶子(かじこ)八坂神社近くの茶店の店主で、幼少の頃より歌才に恵まれ、冷泉為村から和歌を贈られるほどでした。宝永3年(1706)に歌集『梶の葉』を出版。梶子の和歌目当てに訪れた客で茶店は繁盛し、梶子の歌名は全国に知られたといいます。
吉野太夫 寛永の頃の京都六条三筋町の名妓で最高位の太夫の名跡を継ぎました。美貌に加えて和歌や俳諧、琴、書道、茶道など数々の諸芸に優れ、常照寺に山門を寄進しました。
出雲阿国 出雲大杜の巫女を名乗って「やや子踊」や「かぶき踊」を演じ、後の歌舞伎に発展しました。当初は、四条河原町の仮小屋で演じ、しばしば伏見城に招かれ、女院御所で踊った記録もあるそうです。後に北野天満宮に定舞台を持ちました。
4.安土桃山時代 最初は「豊公参朝列」秀吉が参朝したうち、慶長元年(1580)5月の秀頼を初めて連れていった時と、同2年9月元服の報告に行った時を再現しています。武将は「一日晴れ」として特別に許された衣冠の姿をしています。
当時の最高級の牛車「檳榔毛唐庇車(びんろうげからびさしくるま)」に秀吉が乗っている設定です。「檳榔」は「蒲葵(びろう)」というヤシ科の植物の葉、「唐庇」は「唐破風」のことです。当時の豊臣家の勢いと財力がうかがえます。
「織田公上洛列」1568年織田信長は天皇のお召しに応じて足利義昭を奉じて上洛して、応仁の乱後、衰退していた京都の復興につくしました。先頭の立入宗継はその時信長に上洛を促した勅使、次は信長の列の先頭、羽柴(後の豊臣)秀吉です。
信長は1573年に足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、1575年には権大納言、右近衛大将に任ぜられると、公家や寺社に対する知行地の宛行を行い事実上の天下人となりました。しかし、1582年に本能寺の変で明智光秀に討たれてしまいました。
滝川一益 信長の家臣で、本能寺の変に乗じて侵攻する北条氏などと戦いました。賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家とともに戦いましたが破れて投降、所領を全て没収されて妙心寺で出家しました。この後に柴田勝家が続きます。
5.室町時代 「室町幕府執政列」足利将軍は鎧兜はつけず、烏帽子に金襴の豪華な衣装をまとった軽装の小具足姿です。後醍醐天皇に叛き室町幕府を開いた足利尊氏を国賊とした歴史的な経緯から、室町時代は当初から除外されていました。
2007年の桓武天皇1200年記念大祭を機に加わりました。幕府の執政にあたる三管領・四職の主要氏族が従います。管領が斯波(しば)、細川(下の写真)、畠山の3家から、また侍所所司(長官)に任命される四職は、赤松、一色、山名、京極の4家です。
「室町洛中風俗列」室町時代後半に経済力を蓄積した京の町衆によって盛んに催された風流踊りを再現。風流傘を中心に、囃子方、踊り手で構成されます。先頭の赤熊は鞨鼓童(かっこうちわらべ)、久しぶりにカワイイ姿を見ました。
風流傘は祇園祭の山鉾の最も古い形とされ、鞨鼓童は獅子舞の原型といわれています。これらは後に様々に変化しながら日本各地に伝わり様々な芸能を生み出し、江戸時代以降の盆踊りの原型ともなっています。今日はここまでです。
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コメント
いつも思いますが、時代祭は準備とか裏方は大変でしょうね。
馬もたくさん出てきますし。
のんびり見れるのは、有り難いことですよね。
衣装の管理とか、クリーニングとか、考えただけで気が遠くなりそうです。
投稿: munixyu | 2024年10月23日 (水) 16:36
こんばんは。ゆーしょーです。
時代祭は、毎年10月22日に行われる
平安神宮の大祭ですよね。
和宮さまはじめお供の人は皆美人です。
ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2024年10月24日 (木) 00:06
★munixyuさん こんばんは♪
時代祭の衣装は平安神宮が保管・管理していて、毎年決まった日に虫干しするそうです。衣装は伝統工芸品でもあるので、その点検や修理は「伝統服飾工芸協同組合」の方がおこなっています。
投稿: りせ | 2024年10月28日 (月) 02:14
★ゆーしょーさん こんばんは♪
確かに美しい方が多いかも知れません。特に平安時代の女性は芸舞妓さんなので、髪は地毛、着物も着慣れて仕草もしなやかです。
カメラマンによっては女性の顔のアップばかり撮っている人もいますが、時代祭は衣装がメインなので、私は必ず全身を撮るようにしています。
投稿: りせ | 2024年10月28日 (月) 02:21