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2024年10月 3日 (木)

遍照寺と寛朝僧正

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

一昨日の記事の広沢池から少し南に歩いたところに遍照寺があります。「遍照寺」は山号を広沢山という真言宗御室派準別格本山で広沢不動尊とも呼ばれ、真言宗広沢流発祥の寺院として知られています。

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山門をくぐると「右真言宗広沢派根元遍照寺」という道標があります。別の面には「寒月や利剣も凄き赤不動 双湖庵(以下埋没)」と刻まれています。 かっては広沢の池の西の路傍にあったと考えられています。

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遍照寺は平安時代中期の989年、成田山新勝寺を開いた寛朝(かんちょう)僧正が、広沢池畔北西、遍照寺山(朝原山、231m)麓の山荘を寺院に改めたとされます。寛朝僧正は一品式部卿敦実親王の二男で宇多天皇の孫にあたります。「行者神変大菩薩」

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嵯峨富士といわれる端麗な遍照寺山を映す広沢池には金色の観世音菩薩を祀る観音島があり、池畔には多宝塔、釣殿等、数々の堂宇が並ぶ広大な寺院だったといわれています。

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しかし寛朝僧正没後は次第に衰退し、鎌倉時代に後宇多天皇により復興されましたが、室町時代の応仁の乱で廃墟と化しました。奇跡的に難を逃れた赤不動明王と十一面観音は現在地にあった草堂に移されました。「八幡大菩薩」

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江戸時代の文政13年(1830)舜乗(しゅんじょう)律師によりようやく復興され遍照寺の名を継ぎました。「庫裏」は平成9年(1997)の建造。

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「護摩堂」(本堂)は昭和38年(1963)の建造、後ろにある収蔵庫(見えませんが)も同じ時期に建造されました。

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本尊の十一面観音像(重文)は美仏で寺の創建時(989年)の作とされます。作者は平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像の作者定朝の父、あるいは師・康尚の作といわれ、かつて広沢の池の観音島のお堂に安置されていました。

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下2枚は遍照寺のHPからの転載で、十一面観音像は木造、像高12.6cm。優しいまなざしは穏やかで慈悲に溢れ、指先は繊細な表情、衣紋の流れはしなやかな体躯を思わせ、右足を心なしか前に出して、救いの手を差し伸べようとしているようです。

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「不動明王坐像」(重文)は「広沢の赤不動」と親しまれ、寛朝僧正の念持仏とされます。寺の創建時の作で、作者も本尊と同じではないか考えられています。この不動明王は、開祖・寛朝僧正が平将門の乱平定のため

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下総の国(千葉県)へ奉じた不動明王(成田不動尊)と一木二体の霊尊と伝えられています。2体の仏像は後ろの収蔵庫に保管されています。重要文化財は防火設備のある建物に収蔵する必要があるからだと思われます。

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ところで、開山の寛朝僧正は、真言密教の秘法を極め真言宗で始めて大僧正に昇った高僧で、真言宗広沢流の流祖です。 のちに、広沢流は仁和御流、西院流、保寿院流、大伝法院流、忍辱山(にんにくせん)流・華蔵院流の六流に分れました。

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寛朝僧正は大変な法力の持ち主で、いくつもの逸話が残されています。天慶2年(939)朱雀天皇の勅命を受け平将門の乱平定の祈祷を修したところ、たちまち乱は治まりました。その地に東国鎮護のために建立したのが成田山新勝寺です。

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天元4年(981)円融天皇が病気にかかり、宮中で病気平癒の祈祷を修すると、眼前に不動明王が顕現し帝の病がたちどころに癒えたといわれます。

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永延元年(987)一条天皇の勅を承けて六大寺の僧を東大寺大仏殿に集め降雨を祈ると、翌日夕刻奈良大仏殿に遠雷轟き大雨が降ったといわれています。「客殿」は庫裏と同じ時期に建造されました。

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創建当時の風光明媚な遍照寺には、平安時代の様々な貴族・文化人が訪れています。権中納言・定頼は、月見に広沢池を訪れ、観音堂で「皆金色(みなこんじき)のほとけ」を拝したと記していて、現在の観音像と見られています。 「十三重の石塔」

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後宇多天皇は遍照寺の隆盛を称え「こころざし 深く汲みてし 広沢の 流れは末も 絶えじとぞ思ふ」と詠んでいます。

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遍照寺は源氏物語ゆかりの地でもあります。あるとき、具平(ともひら)親王と大顔がお忍びで遍照寺にお月見に出かけましたが、月見を楽しんでいる最中、大顔が消え入るように急死してしまいました。(例祭の一つとして8月16日に精霊流が行われます。)

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具平親王は村上天皇皇子で博学多才で有名でしたが、大顔は親王家に仕える雑役の女性でした。紫式部の父・藤原為時は、親王の生母・荘子とは親戚関係にあり、家令として仕えていました。(鳥居形に点火されるころ、広沢池の西から灯籠が流されます。)

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為時と紫式部は事態を収拾するのに奔走し、親王と大顔の間の王子・頼成を引き取りました。遍照寺の事件は源氏物語「夕顔」の土台になったといわれ、光源氏と身分違いの恋をした夕顔は大顔がモデルとされます。

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下2枚は寺宝で遍照寺のHPからの転載です。下は江戸後期の狩野探雪筆「竹虎図」。虎の実物を見たことのない時代い虎の頭はなんと豹柄、背中と胴は虎柄。太く大胆な線で描かれた竹とは対照的に虎は猫の様に可愛らしく描かれています。

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「吞舟の図」 江戸後期の作で、早朝、水辺で想い人を待ちながら砧(きぬた)を打つ女性の姿が描かれています。頭上には有明の月、傍らの松の木(待来)には朱く熟した烏瓜が絡んでいます。待人はどんな人物なのだろうかと想像が広がります。

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山門を出て、広沢池に戻ります。

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この辺りには「稲荷古墳群」があり、下は直径25m、横穴式石室の円墳で、現在はその上に稲荷社(富岡大明神)が祀られています。上からは遍照寺山が見えました(最後の写真の左上)。

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コメント

こんばんは。ゆーしょーです。
優しいまなざしの十一面観音像、
いつまで見ていても飽きません。
木造なのですね。
コスモスが可愛いです。

投稿: ゆーしょー | 2024年10月 3日 (木) 21:51

ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2024年10月 4日 (金) 20:15

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