大覚寺 華供養塔から宸殿へ
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一昨日の記事では広沢池から田園風景を見ながら大覚寺まできました。「大覚寺」は、弘法大師空海を宗祖とする真言宗大覚寺派の本山で、正式には旧嵯峨御所大本山大覚寺と称し、嵯峨御所とも呼ばれています。
大覚寺は、いけばな発祥の寺として「嵯峨御流(ごりゅう)」の総司所(家元)でもあります。嵯峨天皇が菊ヶ島に咲く野菊を手折り、器にいけたのがそのはじまりとされます。中央の入口を入った左に嵯峨御流ゆかりの地があります。
「華供養塔」 花の命に感謝を込めて金剛華菩薩を祀ります。毎年4月中旬に行われる嵯峨天皇奉献法会は、最初にこの供養塔の前で献華の儀が行われます。供養塔の前に二つの歌碑があります。
嵯峨天皇御製(歌碑)「美耶比度能、曽能可邇米豆留、布智波賀麻、岐美能於保母能、多乎利太流祁布」、漢字(借字)で書かれていて、かな混じり文に直すと、「宮人の その香に感づる 藤袴 君の大物 手折りたる今日」。
菅原道真が編纂した『類聚国史』(892)によると、平安時代の初めに平城天皇が神泉苑に行幸された際に、皇太弟・賀美野親王(後の嵯峨天皇)が菊の花を挿して詠んだ歌だそうです。
未生斉広甫(みしょうさいこうほ)「天地(あめつち)も 神も佛も花ならば 人の心も 花の世の中」 未生斎広甫(1791‐1861)は、江戸時代末に未生斎一甫とともに「未生流」を開き、華道を大成させました。
広甫は未生流二代目当主を引き継いた後、文政12年(1829)に嵯峨離宮の華道を職とする華務職に任命されました。また、僧位の法橋と法眼を賜り、積極的に嵯峨御流の普及に取り組んだことにより「嵯峨御流」は全国的に広まりました。
嵯峨御流は、全国116司所、世界に20の支部・司所があります。当流は家元制ではなく、大覚寺の門跡を総裁として、理事長、華務長、顧問、参与などの役職は互選です。
いけばなの教育研究機関として「いけばな文化総合研究所」(上と下の写真)と「華道芸術学院」、「華道専門学校」があります。大覚寺は学校法人「京都嵯峨芸術大学」を運営して文化教育にも力を入れています。
下はお堂エリアの参拝マップで、建物を見ながら大覚寺の歴史を振り返ります。大覚寺の創建は平安時代初期まで遡ります。延暦13年(794)桓武天皇は新都・平安京に遷都しました。
桓武天皇ののちに即位した平城天皇は、病身のため在位わずか3年で弟の嵯峨天皇に譲位しました。平城上皇の平城古京への復都、薬子の乱などの政変によってその頃の政局は乱れていました。「明智門」
嵯峨天皇は、平安遷都から15年目の大同4年(809)に即位、律令よりも格式を中心に政治を推し進め、ようやく平安京は安定しました。「玄関門」
一方で嵯峨天皇は、都の中心より離れた葛野の地(現在の嵯峨野)をこよなく愛し、檀林皇后との成婚の新室である離宮を建立、これが大覚寺の前身「離宮嵯峨院」です。正面が拝観入口の庫裏「明智陣屋」です。
嵯峨天皇は、唐の新しい文化を伝えた僧侶たちに深く帰依、特に弘法大師空海を寵愛しました。弘仁7年(816)には高野山開創の勅許を与え、同14年(823)には東寺も下賜、真言宗が開宗しました。(大玄関「松の間」に「後宇多法皇使用の御輿」)
上の松の間の襖絵は伝狩野永徳「松に山鳥画」です。下の「式台玄関」は江戸時代初めの後水尾天皇の中宮・東福門院(徳川2代将軍秀忠の娘)(1607-1678)の女御御所、長局(ながつぼね)の一部が移築されたといわれています。
「宸殿」(重文) 東福門院和子の女御御殿の宸殿として使用され、後に明正天皇の仮御所になり、その後江戸時代の17世紀後半に移築されたといわれます。旧御所の名残で、前庭には左近の梅、右近の橘が配置されています。
弘仁9年(818)の大飢饉に際して嵯峨天皇は、弘法大師の勧めにより一字三礼の誠を尽くして般若心経を浄書、その間に檀林皇后は薬師三尊像を金泥で浄書しました。
宸殿は狩野山楽の襖絵で飾られ、3作は紙本金地着色です。上と下は狩野山楽の「牡丹図」で、部屋は「牡丹の間」とよばれています。狩野山楽(1559-1635)は、安土桃山時代から江戸時代初期の狩野派の絵師です。
山楽は武家の出身でしたが、豊臣秀吉の命により狩野永徳の門下に入り改姓、永徳亡き後は秀吉・秀頼父子の2代に渡り絵師として豊臣家に仕えました。「柳松の間」の狩野山楽「柳松図」
大覚寺の歴史にもどり、弘法大師は嵯峨院持仏堂五覚院で五大明王に祈願しました。このときの宸筆・般若心経は、60年に一度しか開封できない勅封心経として現在も大覚寺心経殿に奉安されています。「前庭」
貞観18年(876)嵯峨上皇の長女で淳和天皇の皇后であった正子内親王が、嵯峨院を改めて大覚寺を創建、淳和天皇第2皇子の恒寂入道親王を開山としました。(宸殿の北の部屋を見て回ります)
狩野山楽はその経歴が災いして豊臣氏滅亡のあと窮地に陥りました。しかし、九条幸家らの助命嘆願で救われ、彼を中心とする関係者に作品を提供する一方で江戸幕府からの注文もこなしました。「紅梅の間」、狩野山楽「紅梅図」
多くの障壁画・屏風に永徳風の作品を残し、江戸へ移った狩野派とは疎遠になり京都に留まった子孫は「京狩野」と称されました。「鶴の間」 狩野永徳「鶴画」、このあと「村雨の廊下」を通って残りの伽藍を見に行きました。
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コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
大覚寺へは数回行ったことがあります。
昔は大沢の池へは自由にはいれたのに
今は大沢門という参拝口を設けている
のですね。 ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2024年10月11日 (金) 03:30