時代祭2024 後半
過去の全記事 2006年1月27日から毎日更新しています。
一昨日行われた時代祭巡行列の後半です。今日は残りの全ての行列を紹介するので少し写真が多くなります。
6.吉野時代 「楠公(なんこう)上洛列」 1333年後醍醐天皇が配流先の隠岐から還幸した際、楠木正成(下)は一族郎党を率いて鳳輦(ほうれん)を兵庫に迎え、先駆として上洛しました。正成が一番華やかだったときの行列です。
この後、後醍醐天皇は帰京して建武の新政を行いますが、1337年足利尊氏が京都に攻め入り吉野に逃れて南北朝時代が始まります。吉野時代とは、京都を脱出して吉野行宮に遷った後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)の時代を表します。
1336年正成は九州から京都を目指す足利尊氏の軍と戦いました。楠木正成と弟で副将の正季(まさすえ、上)は湊川の戦いで敗北、自害しました。 やがて北朝の勢力は南朝を圧倒して、1392年足利義満の斡旋で南朝が北朝に合流しました。侍大将
「中世婦人列」 最初は大原女で、昔から洛北大原の婦人は薪や炭等を頭にのせ京の町へ売りに出る風習がありました。これは室町末期の大原女姿だそうです。大原農協婦人会の皆さんです。
桂女 古来桂包(かつらつづみ)といって女性が髪を白い布で包み、着物を短く着た装束で、主として桂川の鮎と飴を京の町に売り歩いていました。桂と桂東婦人会の輪番だそうです。
淀君 浅井長政の娘で豊臣秀吉の側室になり、後継者・秀頼を生みました。秀吉没後の関ヶ原の戦いは、その家臣の間の戦いでもありました。しかし勝利した徳川家康と豊臣家の力関係は逆転、後の大坂の陣で豊臣家は滅亡しました。
藤原為家の室 阿仏尼(あぶつに)と呼ばれた鎌倉時代の女流歌人です。為家の死後、所領の相続をめぐり正妻の子と争い、幕府に訴えるために鎌倉に下ったときに『十六夜(いざよい)日記』を著しました。
静御前 鎌倉時代の白拍子から源義経の愛妾になりました。今様を舞う白拍子姿で、数年前に身にまとう薄紫色の水干が新調されました。以上の3名の女性は五花街の芸舞妓さんの輪番です。
7.鎌倉時代 「城南流鏑馬列(やぶさめれつ)」 1221年後鳥羽天皇は朝廷の権威回復をはかり、城南離宮で近畿十余国の武士を招集して流鏑馬を催しました。流鏑馬は平安時代から武士のたしなみとして行われていました。
狩装束の射手の武士を中心とした5組が行進します。この年に後鳥羽上皇は鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げるも敗れてしまいました(承久の変)。鎌倉時代の京都は政治の中心ではなく、時代祭の列も長くはありません。
8.藤原時代 「藤原公卿参朝列」 平安中期以後、権勢を誇った藤原氏の摂関政治が続き、その盛時における文武両様の姿をあらわしたものです。まとっているのは当時の夏の様式にそったものだそうです。
ちなみに、藤原時代は主として美術史で用いられる時代区分ですが、平安時代中・後期の最も貴族文化が栄えた時期でもあります。
「平安時代婦人列」 京都五花街の中から輪番で芸舞妓さんが参列します。最初は横笛 建礼門院の雑仕女で滝口の武士斎藤時頼と恋におち、嵯峨へ時頼を尋ねて行く姿です。今年の平安時代夫人列は先斗町と宮川町の芸舞妓さんたちです。
常磐御前 源義朝の后で、平治の乱で謀反人となった義朝亡き後、三児を連れて六波羅へ出頭するところです。幼い牛若は懐にいます。常盤の美しさに心を動かされた清盛は子供たちを助命、これが後に平家が滅ぼされることになります。
巴御前、木曾義仲のちょう愛をうけ、義仲没後尼となりました。『源平盛衰記』より天冠や鎧を身に着け、太刀を帯に着け長刀を持っています。
清少納言と紫式部 二人はそれぞれ、一条天皇中宮の定子と彰子に仕え、定子は藤原道隆、彰子は藤原道長の娘です。道長が絶大な権力を掌握していく時代で、二人はライバルとみなされました。今年は先斗町のもみ福さんと珠雪さんがさん務めました。
清少納言は唐衣に裳を着けた女房装束(十二単)姿で女官の正装、紫式部は小袿衣(こうちぎ)姿の略装です。この二人は平安時代の女性の中では宮中に仕えて身分が高いので車に乗っています(動画です)。
紀貫之の娘 貫之の娘の紀内侍(きのないし)も歌人です。村上天皇が清涼殿前の梅が枯れたので彼女の家の梅を移したところ、枝に結ばれていた歌に感動して梅の木を返したという鶯宿梅(おうしゅくばい)の故事にちなんで梅の小枝を持っています。
小野小町 六歌仙に名を連ねる女流歌人で、絶世の美女といわれます。衣装は平安初期の特別な姿で、神像を参照して作られた時代祭オリジナルだそうです。
和気広虫(わけのひろむし) 貴族の和気清麻呂の姉で、慈悲深く多くの孤児を養育し、日本で最初の孤児院を設立しました。清麻呂は、宇佐八幡宮のご神託によって道鏡の野望をくじき、平安遷都を進言したことで知られます。
百済王明信 平安時代百済王家の女性は宮中に重用され、桓武天皇の時代に明信は尚侍(ないしのかみ)に上り詰め、後宮に仕える女官を取り仕切る長官となりました。この3人は京都地域女性連合会の皆さんです。
9.延暦時代 「延暦武官行進列」 延暦時代とは桓武天皇の782年から806年まで、奈良時代末期から平安時代初期の期間です。列の大将は征夷大将軍・坂上田村麻呂で、東征を終え平安京に凱旋する様子を表しています。
下は副将で、この時代の考証史料は少なく、それぞれの行装は正倉院御物や古墳の出土品などによって復元、その後の研究成果をもとに逐次改良が加えられているそうです。
「延暦文官参朝列」 この時代の公卿諸臣の参朝の状景をあらわしています。衣装は朝服で先頭の三位は浅紫色。三位は行列中の最高位で、蘇芳色総の馬飾りの馬に乗り、平安神宮で全行列を代表して祭文を奏上します。
続く四位は深緋、五位は浅緋、六位は深緑の袍を着用、後ろに織物の垂りなどをつけた傘と棒ふりばやしからなる傘鉾が巡行し、古い鉾の形態だそうです。
「神饌講社列」 ここからが平安神宮の神幸祭の行列です。本職の京都料理組合の皆さんが神饌講社を組織して、時代祭当日の神饌物を奉献します。下の「副御饌長(みけちょう)」は京料理・下鴨福助の3代目安念尚志氏です。
「前列」 次の神幸列の前を行くので前列といわれます。御賢木(おんさかき)を先頭に狩衣姿の人々が先導し、雅楽の伶人、舞人が続きます。平安講社第七社(左京区)の皆さんが中心です。このあたりで帰ってしまう見物客が多いのは残念です。
左は「迦陵頻伽(かりょうびんが)」 上半身が人、下半身が鳥の極楽浄土に棲むとされる想像上の生物です。一昨年袍(ほう)と呼ばれるコートが新調されました。
右は「胡蝶」 蝶を模した羽根をつけ、橘の花を持っています。迦陵頻伽と胡蝶は左右にそれぞれ一組ずつ行進します(神前に舞を奉納する踊子です)。左右に一組ずつ歩いています。
「神幸列」 2基の御鳳輩(天皇の乗り物)のうち、前には平安京を造営した桓武天皇、後ろには京都最後の孝明天皇の神霊が載っています。先導するのは平安神宮宮司・本多和夫氏で、その前を雅楽の奏者や神宝が行進しています(後の動画)。
神宝は、御剣、弓や楯、矛、紫御翳(むらさきのおんさしは団扇のようなものです)、管御翳(すげのおんさしば)、神馬用馬具などからなります。少し動画撮影に慣れて、神幸列の雰囲気が分かるとおもいます。
「白川女献花列」 比叡山を源とする白川の流域に住み、季節の花を売り歩いた女性が白川女で、平安時代中頃から御所に花を届けていたといわれます。午前中の行在所祭で、神饌と白川女による花が奉納されました。白川女風俗保存会の皆さんです。
「弓箭(きゅうせん)組」 丹波国南桑田、船井両郡には、源頼政に従って弓箭(弓矢)の術を究めた者が多く、平安遷都の列の警護にあたりました。子孫も平素弓箭組を組織、維新の際には山国隊とともに活躍しました。時代祭の列を警護しています。
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コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
大原女かと思いましたが
白川女ですね。
白川女の献花列がとても
素晴らしいです。
頭が痛くないのでしょうか。
投稿: ゆーしょー | 2024年10月24日 (木) 20:12
ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2024年10月25日 (金) 02:45