時代祭と新選組
過去の全記事 2006年1月27日から毎日更新しています。
先日時代祭の記事を書きましたが、そこに登場しない歴史上の有名人が何人かいます。明治28年(1895)に平安神宮が創建され、神宮の管理と保存のための市民組織として平安講社が作られました。
その記念事業として始められたのが時代祭です。祭神の桓武天皇と孝明天皇の御霊が、その住まいであった御所から街の繁栄を見ながら平安神宮に行くお供が時代祭の祭列です。
そのため、朝廷や京都から見た時代区分がなされています。鎌倉時代は幕府を京都から離れた東国に開いたからか、将軍たちは登場しません。かわりに、城南宮で開催された流鏑馬列が登場します。
一方で、木曾義仲のちょう愛をうけた巴御前や源頼朝の后・常磐御前(下の写真)が登場します。連れているのは今若と乙若で、懐に牛若(源義経)が抱かれています。
室町時代も当初は行列にありませんでした。足利尊氏を後醍醐天皇に反逆した逆賊と見なしたからです。しかし、金閣寺や銀閣寺を始めとするこの時代の文化が京都に大きな恩恵を与えていることを評価すべきとの声が高まり、
2007年にやっと行列参加が認められました。ただし、京都を脱出して吉野行宮に遷った後醍醐天皇の南朝(大覚寺統 )を正統として、南北朝時代を「吉野時代」と表現しています。 「楠公上洛列」
織田信長や豊臣秀吉は登場するのに、徳川家康以下の徳川将軍は名前がでてきません。旧幕府軍が朝敵だったからかも知れません。登場する「徳川城使上洛列」は朝廷の大礼や年始等の際に上洛する将軍家の名代で、親藩あるいは譜代大名が選ばれました。
「維新志士列」は幕末から明治にかけて活躍し、明治維新に貢献した武士や公家が登場します。この時代の行列に新選組を登場させるべきと考え、行動した人々がいます。(以下の写真は新選組ゆかりの場所や史跡です。)
昭和51年3月13日彼らは「京都新選組同好会」を結成して、その年から池田屋事変記念パレードを始めました。メンバーのそれぞれは新選組の隊士の名を名乗っています。三条小橋西の「池田屋騒動跡」
たとえば、局長・近藤勇(横田俊宏)は中京区で刀剣・古美術「開陽堂」を経営。同好会の設立者・局長として50年近く隊を統率。人格・指導力ともに優れ、隊士の絶大な信頼を得ているそうです。三条大橋に残る池田屋騒動の際の刀傷
副長・土方歳三(奈良磐雄)は京都デザイン協会理事長、伍長・島田魁(今井信夫)は今井工務店経営、組長・藤堂平助(酒井健雄)は京都履物株式会社経営、組長・沖田総司(永田鐘丸)は山師で、隊きっての男ぶりで女性ファンも多いとか。「金戒光明寺西門」
3回目のパレードを終えた昭和54年8月、時代祭の執行母体である平安講社との交渉を開始しました。当初は宮司が三條實春氏というぐらいの知識しかなく、平安講社の役員が新選組に関してどのような考えかも分からず、まずは書面で面会の申込をしました。「山門」
私的団体の申込は断られる可能性が高いと思っていたら、1週間もせずに面会許可の返事がきたそうです。10月25日の午後、タクシー3台に分乗した京都新選組同好会幹部8名は平安神宮正面に到着しました。(会津墓地を管理する金戒光明寺塔頭「西雲院」)
当然のことながら新選組の正装をして、誠の印の入った鉢金を頭に巻き、腰に大小を帯刀した姿でパレードの時以上に緊張していました。この様子は、事前に連絡をしておいた読売テレビが撮影しました。
8名は平安神宮社務所の応接室へ通され、お茶の接待を受けながら5分ほど待ちました。応対に出たのは神主装束の平安講社総長の竹内忠治氏と、副理事長の杉本三郎氏でした。「会津墓地」
面会申込書に同封した同好会設立趣意書や記念パレードの写真、活動の新聞記事などを見ていただいたようで、丁寧な応対だったそうです。下は新選組の屯所があった「御菓子司 京都鶴屋 鶴寿庵」。
さっそくですがと断わり、用意していた嘆願書を副長が読み上げ、かねてからの願いである「新選組を時代祭行列に参加させる」という願いを伝えたそうです。壬生寺の山門
だまって聞いていた二人のうちの総長が「ご意向はよくわかりました、即答できる問題ではないので、慎重に考慮させていただき、後日返事をすることを約束します」と返事をしました。壬生寺の本堂
とても丁寧な応対に気をよくして、ひょっとすれば参加許可の返事がもらえるのではと思っていた同好会の元へ、一か月後に次の内容の回答書面が届きました。
「昭和五十四年十一月十五日 平安神宮宮司三條實春 平安講社総長竹内忠治」「京都新選組同好会 代表横田俊宏殿」とあり、内容は「拝啓 時下益々御清栄の段欣慶に存じます。さて過日時代祭の行列に新選組参加の希望に付きましての陳情書の趣を拝見」、「阿弥陀堂」
「各位の真摯な御熱意に対し深い敬意を表するものでございます」。以下は時代祭が始まった経緯と趣旨が書かれ(省略)、最後に「誠に不本意乍今回申出の趣旨は郷土の歴史としては十分理解せらるる処乍ら」、(阿弥陀堂の向こうにある「壬生塚」)
「行列参加の点につきましては一応留保致したいとの決定に立至つた次第であります。不悪御諒解下さいますよう右御回答まで申上げます。敬具」さらに、同様の趣旨の平安神講社本部の文書が続いていたそうです。近藤勇の胸像(遺髪塔)
結局、丁寧な文面ながら断わられました。平安神宮と講社が新選組を行列に加えたくないと考えていることがはっきりしたので、同好会としては独自にアピールを続けて機運を待つ事としたそうです。「新選組隊士慰霊碑」
下は昨年の7月16日に一般公開致された「土方歳三胸像」。それ以下の写真は副長・土方歳三(奈良磐雄)のブログ『奈良磐雄の日記・NEW』からの転載です。
京都新選組同好会は、今年7月16日、161年前の池田屋事変を記念した壬生寺の「新選組隊士等慰霊供養祭」に参列。最初に新選組屯所・八木邸(下の写真)で芹澤鴨他の位牌に焼香しました。
寺務所から壬生塚の慰霊供養祭に向かう松浦俊昭壬生寺貫主の一行を儀仗。慰霊供養祭のあと、45年間お世話になっている島原の本陣「湯の宿 松栄」へ戻り、スーパー銭湯で汗を流し、ゆっくり休憩した後、5時から宴会をしたそうです(最後の写真)。
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コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
ものすごく美味しそうですね。
刺身大好きです。 ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2024年10月31日 (木) 03:22