大覚寺 創建後の歴史と最後の宮門跡
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昨日の記事に続いて大覚寺の伽藍をめぐります。上は宸殿と心経前殿を結ぶ回廊で、縦の柱を雨、直角に折れ曲がっている回廊を稲光(いなびかり)にたとえ「村雨の廊下」と呼ばれています。
高貴な人が通る際の防犯のために、天井は刀や槍を振り上げられないように低く造られ、床は鴬張りとなっているといわれます。下はお堂エリアの境内図で、伽藍をみながら創建後の歴史を紹介します。
最初に、村雨の廊下から左にある正宸殿の方に行こうと思ったら、通行禁止になっていました。特に工事が行われている様子もなくちょっと理由が分かりませんでした。
後で引き返したら正宸殿の前に結婚衣装のカップルがいたので、結婚式が行われているのだと思っていました。この記事を書くために調べると、大覚寺では結婚式は行われず、前撮り撮影を含めて様々な撮影の場所を提供しているようです。
大覚寺のHPには撮影申込などの案内はなく、業者を通して申し込むようになっていました。ちなにみ、業界のリーディングカンパニー「WATABE WEDDING」のHPによると、和装で格式がある前撮り写真が撮れるので大覚寺は人気だそうです。
しばらく待てば通行禁止が解除されるかも知れないと思いましたが、閉門まで時間がないので正宸殿と朱色の霊明殿(上の写真)は訪れていません。「高松宮御手植」の松です。
大覚寺が創建れた後、延喜年間(901-923)になると、宇多法皇がしばしば行幸して宴を催しました。開山の恒寂入道親王の後、3代定昭より20代良信までの約290年間興福寺一乗院との兼帯(兼職)が続きました。「常陸宮御手植」
一乗院による兼帯後、文永5年(1268)、後嵯峨上皇が落飾して素覚と号し、第21代門跡となりました。また、後宇多天皇が徳治2年(1307)に出家し法皇となり、法名を金剛性と号し大覚寺に住して第23代門跡となります。「秩父宮御手植」
「勅封心経殿」 大正14年(1925)、法隆寺の夢殿を模して再建。嵯峨天皇をはじめ、後光厳天皇、後花園天皇、後奈良天皇、正親町天皇、光格天皇の宸翰勅封般若心経を奉安し、薬師如来像が祀られています。宸翰(しんかん)は天皇直筆の書のことです。
後宇多天皇が門跡となった時、皇位が皇統や所領の継承をめぐって2分されます。亀山・後宇多の皇統は、後宇多法皇が大覚寺に住したことにより大覚寺統(南朝)と称され、両統迭立は南北朝の統一まで続きます。「閼伽棚」
後宇多法皇は大覚寺の再興に尽力、次々と伽藍の造営に努められたので「大覚寺殿」と称されました。「霊宝殿」 来年初めに東京国立博物館で「大覚寺展」が開催されるので、今年の秋季名宝展、来年の春季名宝展は開催されません。
「心経前殿」 大正14年(1925)建造。大正天皇即位に際し建てられた饗宴殿を式後賜り移築。心経殿の前殿にあたるため「心経前殿」と呼ばれます。嵯峨天皇、弘法大師、後宇多法皇、恒寂入道親王の尊像をお祀りするため「御影堂」とも呼ばれます。
「勅使門」 嘉永年間(1848-54)の再建。門は四脚門、屋根は切妻造り、正面および背面に軒唐破風を付け、全体は素木(しらき)造りですが、唐破風の部分のみ漆を塗り、鍍金の飾り装飾を施しています。
勅使の来山や門跡猊下出仕の晴れの法会など特別な時のみ開かれます。猊下(げいか)とは高僧や各宗派の管長の敬称だそうです。別名「おなごりの門」と呼ばれますが、その理由は後ほど。
「安井堂(御霊殿)」 東山にあった安井門跡蓮華光院の御影堂を、明治4年(1871)に移築。堂内部は、内陣の格天井鏡板に花鳥などを描き、その奥の内々陣の折上の鏡天井に壮麗な雲龍が描かれています。中央には鳳輦に座る僧形の後水尾天皇を祀ります。
第24代性円門跡の時代、延元元年(1336、北朝では建武3年)火災によりほとんどの堂舎を焼失。元中9年(1392、明徳3年)には南北朝媾和が大覚寺正寝殿で行なわれ、南朝の後亀山天皇は北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って退位、大覚寺を院御所としました。
しかし、和議の条件が果たされなかったため、応永17年(1410)、後亀山上皇の吉野出奔以後、南朝の再興運動が起こり、大覚寺もこの運動に深く関わっていきました。(五大堂の外縁にきました。)
戦国時代に入り、応仁2年(1468)応仁の乱によりほとんどの堂宇を焼失。天文3年(1534)からは東山の安井門跡蓮華光院を兼帯するも、天文5年(1536)にも木沢長政勢により放火されました。
天正17年(1589)、空性を門跡に迎えた後、衰退した大覚寺の再建にとりかかり、寛永年間(1624-44)には、ほぼ寺観が整えられました。「五大堂(本堂)」は江戸時代中期(天明年間)創建。現在の大覚寺の本堂で不動明王を中心とする五大明王を祀ります。
江戸時代後期の天保8年(1837)有栖川宮慈性入道親王が門跡に就任します。しかし、尊王攘夷が叫ばれる混迷の時代、慈性門主は幕府から勤皇討幕の疑いをかけられてしまいました。
大覚寺は真言宗の寺院であるにもかかわらず、宗派の違う天台宗の徳川家菩提寺、江戸の輪王寺の住職を兼務するよう命が下りました。慈性門主は大覚寺をこよなく愛し、この地を離れたくない想いを強く持っていましたが、
幕府の命に背くこともできず、江戸に出発の時、勅使門より出るときに何度も何度も振り返り、勅使門は「おなごりの門」と呼ばれるようになりました。慈性門主は天台座主として輪王寺で五年過ごしたあと、輪王寺を弟の公現法親王に譲りました。
大覚寺の伽藍復興の念願を訴え幕府も熱意にほだされたのか隠居のうえでの帰山を認めました。しかし、出発寸前の慶応3年(1867)11月急死、大覚寺最後の宮門跡となってしまいました。このあと、五大堂の階段を下りて、大沢池に向かいました。
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