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2024年9月29日 (日)

印空寺 北嵯峨の古刹

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※写真は全てクリックで拡大します。

一条通と山越通の交差点から西に行くと、すぐに印空寺があります。前の道は「千代の古道」といって、平安貴族が北嵯峨に遊行した道といわれています

印空寺」は山号を月江山という西山浄土宗の寺院です。山門の右に「旧御室御所茶所」という石標(TOPの写真)がありますがその意味は後程。

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印空寺は、印空上人(‐1692)が美濃国(岐阜県)立政寺から入洛し、仁和寺第23世門跡・覚隆法親王からこの地を賜り、元禄元年(1688)に七堂伽藍を建立したのが始まりとされます。山門を入った左に石碑があり、

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「昨日を悔いず 明日を恐れず 今日を楽しい充実した一日にしましょう」と刻んでありました。その後、了海上人(1663-1719)が住持となり、寺勢は盛んとなり、中興の祖といわれました。

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 明治維新(1868年)後の廃仏毀釈によって次第に荒廃の道をたどりましたが、昭和45年(1970)圓空瑞元上人が普山して寺の復興に努め、浄土宗開宗800年の昭和49年(1974)に鐘楼を建立しました。

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平成3年(1991)には檀信徒の協力を得て本堂、山門、庫裏を一新するとともに、本堂前の参道に枯山水式石庭「二河白道(にがびゃくどう)
」が造られました。二河白道は作家・冨永航平の命名です。

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二河白道とは、浄土教における極楽往生を願う信心を象徴しています。現世と浄土を結ぶ白い道は、貪りや執着の心を表す水の河と怒りや憎しみを表す火の河に囲まれ、 

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現世から釈迦の「逝け」という声、浄土からは阿弥陀仏の「来たれ」という声に励まされ、人々はこの道を通って悟りの世界へ導かれるのだそうです。北山老杉、梅、辛夷、桜、紅葉などを配し、歴史風土特別保存地区にふさわしい山容となりました。

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本尊の阿弥陀如来像は、地名から「山越の阿弥陀」といわれ、脇侍仏の観音・勢至両菩薩像は、昭和の名匠・松久朋琳師(1926-1992)の作品です。以下の3枚はパンフレットからの転載です。

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本堂に安置されている「御所大黒天神」には逸話があります。室町時代の後柏原天皇は応仁の乱で人々が戦禍と疫病に苦しむのを憂慮されていたところ、永正元年(1504)夢に大黒天神が現れました。

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「人々の苦を救い、福を与えるために此世に来た仏である」とお告げがありました。天皇はその姿を紫宸殿の棟木を寄木式にして作り救世祈願をしました。以後約350年、宮中に祀られていました。

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蓮台ではなく、米俵を踏まえて立つ甲子(きのえね)型大黒天の第一号ともいわれます。伏見宮邦家親王が聚楽廻りの庄屋・中家甚三郎氏に賜り、以後の百余年間秘仏として保管されてきました。

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当主中家昇氏が広く人々の幸福を願うため、昭和53年(1978)旧御室御所ゆかりの当寺に納められたものだそうです。(本堂の左手に書院があります。) 

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ところで、山門横にあった石碑の旧御室御所茶所とは、御室仁和寺(御室御所)門跡が外出する際、この地にある印空寺の前身の印空庵という庵を休憩所として利用したことを示しているそうです。

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本堂右の蹲踞(つくばい)にもちょっとした歴史があります。かって太秦広隆寺西に坂東妻三郎の屋敷がありました。その後の約30年の間、映画関係者が多く泊まる旅館に転用されましたが廃業、現在はマンションが建っているそうです。

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この鞍馬石・袈裟づくりの蹲踞はその屋敷にあったものが、旅館廃業時に当寺の檀家の家に移され、本堂新築時に寄進されました。

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本堂の右横(東)に開山堂「広隆坊」の額がかかった建物があります。お茶室になっているようです。

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本堂の裏は墓地になっていて、その右(東)に印空寺古墳(山越17号墳)があります。このあたりは古墳時代後期の豪族の拠点で、小さな古墳が点在して「山越古墳群」を形成しています。

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印空寺古墳は径25m、高さ4mの円墳で、主体部は横穴式石室と思われるそうです。石段がついていて、周囲には灯籠などの石材とともに、石室のものと思われる石もあります。

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頂上に開山の印空上人の墓があり、周囲はよく手入れされています。古墳から降りると、二つの石碑があります。

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宮崎信義(のぶよし)の歌碑「山が描けるか風や水が描けるかあと一日で春になる」。信義(1912- 2009)は京都の歌人で、口語自由律短歌(新短歌)の隆盛に貢献しました。

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相馬大(そうまだい)の「あやとり」という詩碑。相馬大(1926- 2011)は、立命館大学文学部卒、京都聖母女学院短期大学教授を務め、詩の他に京都の文化についての多くの随筆を残しています。

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本堂前に戻る途中に石塔が並んでいます。右が中興の祖・了海上人、左が昭和に復興した圓空上人の墓。

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中興の祖・了海上人は土地の人に親しまれ、「ねんねせん子は了海坊にかます 了海坊がこわけりゃ ちゃとねやれ」という子守歌が伝えられています。子供には怖がられていたようです。

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上の石仏の横に多羅葉樹(たらようの木)の大木があります。この葉の裏を先が尖ったものでこすると樹液がしみ出して黒く変色するので、古代には写経や通信に用いられ、「葉書」の語源であるともいわれています。下は山門の横から。

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山門横の井戸の上に小さな蛙がいました。このあと、北嵯峨の風景を見ながら、広沢の池の方に向かいました。

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コメント

こんばんは。ゆーしょーです。
印空寺は広沢の池近くにあるのですね。
広沢の池へは一度だけしか行ったことがなく
すぐに戻ったので印空寺は全く知らないです。
そんな北嵯峨に立派なお寺があるのですね。
ポチ♪

投稿: ゆーしょー | 2024年9月30日 (月) 00:01

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