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2024年9月26日 (木)

誠心院と和泉式部

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

「誠心院」は正式名称を華嶽山(かがくざん)東北寺誠心院という真言宗泉涌寺派の寺院です。和泉式部ゆかりの寺で、通称「和泉式部」とも呼ばれます。

和泉式部は、越前守・大江雅致と越中守・平保衡の娘の間に生まれ、美貌と歌の才能に恵まれ、冷泉天皇の皇后・昌子に仕えました。(山門の左の石碑には池西言水句…とありますが、説明は後ほど。)

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20歳の頃、和泉守・橘道貞の妻になり、夫の任国と父の官名により「和泉式部」と呼ばれました。今年の大河ドラマでは「あかね」とよばれていますが、本名は明らかではないそうです。

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道貞との間に後に母譲りの歌人として知られる「小式部内侍(こしきぶのないし)」が生まれますが、結婚生活は破たんして帰京後は別居します。冷泉天皇の第三皇子・為尊親王との熱愛が世に知られ、身分違いであるとして親から勘当されました。

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山門からの通路に、当院に伝わる「和泉式部縁起絵巻」(江戸時代)の絵画部分のパネルがあります。上巻は女人往生を遂げるまで、下巻は謡曲「誓願寺」の題材となった一遍上人との出会いです。

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為尊親王の死後、その同母弟・敦道親王の求愛を受けます。親王は式部を邸に迎えようとし、正妃(藤原済時の娘)が家出する原因となりました(式部25歳の頃)。恋愛遍歴が多く、道長に「浮かれ女」、紫式部に「けしからぬ方」と評されたのはこの頃です

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敦道親王の召人(女房)として一子・永覚を設けますが、父子ともに相次いで亡くなりました(29歳の頃)。本堂には本尊・阿弥陀如来像(下の写真)、尼僧姿の和泉式部坐像、藤原道長像が安置されています。

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尼僧姿の和泉式部坐像は江戸時代の作で、ポスターとなって入口付近で参拝者を出迎えています。

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その後、一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として仕え、33歳の頃丹後守・藤原保昌と再婚しました。本堂前にある「水かけの行者」(神変大菩薩像)の石像、幕末の大火で消失した神変大菩薩像(木造)を再興したものです。

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47歳の頃に娘の小式部内侍(こしきぶのないし)に先立たれ、書写山円教寺の性空上人の勧めで誓願寺の本堂に籠り、六字名号(南無阿弥陀仏)を唱える毎日だったそうです。和泉式部の歌碑「霞た津 はるきにけりと 此花を 見るにぞ鳥の こゑもまたるる」

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そんな式部のために、彰子は父・藤原道長に頼んで、法成寺東北院のそばに小御堂(こみどう)を建てました。式部58歳の時には夫・保昌も亡くなり、出後して小御堂に住まい朝夕に本尊・阿弥陀如来を詣でたといいます。

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その頃詠んだ「暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遙かに照らせ 山の端の月」は性空上人にあてた歌です。下の台座に「合祀型納骨永代供養」した施主の名が上の「百八観音」に 刻んであります。

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中央は和泉式部をしのぶ聖観音菩薩で「式部千願観音」と名づけられました。式部千願観音の八角形の台座の六面に願主の名が刻まれています

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上の歌の返しに和泉式部は性空上人から袈裟をもらい、それを着て命を終えたといわれます。本堂の裏に式部の墓所とされる宝篋印塔があります。鎌倉時代天和2年(1313)の建立です。

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和泉式部は、当時はできないとされた女人往生(仏になること)を成し遂げ、六字名号を念仏する人には25菩薩とともにお迎えに来るという謡曲「誓願寺」が生まれました。この「宝篋印塔」はその謡曲にも現れます。

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小御堂は東北寺誠心院と呼ばれ、当初は御所の東にあったそうです。後の鎌倉時代に鴨川の氾濫などがあり、小川通一条(上京区)に移転しました。この頃、泉涌寺の末寺となりました。

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安土桃山時代の天正年間(1573-1592)に豊臣秀吉の都市改造により現在地に移りました。この移転の際に建立された「阿弥陀如来」(上の写真)と「二十五菩薩石像」が宝篋印塔の後ろに再建されています。

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横には、中興の檀越(檀家)「山口家一族の墓所」があります。山口甚介をはじめとする山口家一族は、秀吉の命により誠心院の移転・再興を担当し、上の石像を建立しました。

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右は、長唄の杵屋六左衛門の碑、中央は俳諧師・紫藤軒言水の墓、上に「凧(こがらし)の果は有けり海の音」の代表句。左は墓建立の由緒。言水は、池西言水あるいは「木枯らしの言水」ともいわれ、江戸俳壇に新風を吹き込んだ先鋭的な俳人でした。

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33歳で京都に移住して、北越、奥羽、九州などを行脚しながら、京都俳壇を代表する俳人の一人として活躍しました。下は庫裏で、御朱印はこちらでいただけます。

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誠心院は幕末の蛤御門の変で焼失、さらに明治5年(1872)に造られた新京極通によって境内を分断され、山門や堂宇を失い、その後荒廃してしまいました。顔はめパネル、左が和泉式部、右が小式部内侍。

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平成9年(1997)になってようやく山門が再建されました。最近は「阿弥陀如来と二十五菩薩石像」、「神変大菩薩」の再建、「百八観音」や「式部千願観音」の建立、式部の墓を始めゆかりの人々の墓を整備するなど、再建の途中だそうです。

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コメント

こんばんが。ゆーしょーです。
誠心院、素晴らしいお寺ですね。
それに立派なお墓です。

投稿: ゆーしょー | 2024年9月26日 (木) 23:32

ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2024年9月27日 (金) 01:07

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