崇徳天皇の旧跡を訪ねて その3 怨霊伝説
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讃岐に配流された崇徳上皇は、8年後の長寛2年(1164)8月26日、46歳で崩御しました。以下の写真はしばらく三十三間堂です。
保元の乱(1156年)で勝利をおさめた後白河法皇はその年に「法住寺殿」を建て、院政の拠点としました。後の1164年、法皇の発願により、平清盛が院御所の南殿に建立した仏堂が三十三間堂(蓮華王院)です。「拝観入口」
崇徳上皇が讃岐国で崩御した際、後白河法皇はその死を無視。国司によって葬礼が行われただけで、朝廷による措置はありませんでした。後白河上皇は1169年に出家して法皇となりますが、便宜上最初から法皇と書いています。
安元2年(1176)、後白河法皇の女御・建春門院、二条天皇の中宮・高松院、二条天皇の子の六条上皇、近衛天皇の后(藤原忠道の養女)・九条院が相次いで死去しました。「此附近 法住寺殿址」の石碑
さらに、翌年になると延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こり、社会の安定が崩れ、長く続く動乱の始まりとなりました
この頃から貴族の日記に崇徳上皇の怨霊がしばしば登場するようになります。『愚昧記』安元3年5月9日条には「讃岐院ならびに宇治左府の事、沙汰あるべしと云々。これ近日天下の悪事彼の人等所為の由疑いあり」とあります。
宇治左府は宇治に居を構えた左大臣・藤原頼長のことで、保元の乱で討ち死にしています。最近の悪い出来事は二人の(怨霊の)仕業の疑いがあるので、何か対策をしなければ、と書いています。「写経奉納塔」
精神的に追い詰められた後白河法皇は怨霊鎮魂のため、保元の乱後に発した宣命を破却し、8月3日には「讃岐院」の院号を「崇徳院」に改め、頼長には正一位太政大臣を追贈しました。「回廊」
それまで、崇徳上皇の諡号(天皇が死後に贈られる正式な天皇名)は侮蔑の意を込めて、異郷の地名の「讃岐院」とされていました。また、太政大臣は最高位の官位で、頼長は左大臣(正二位)どまりでした。
寿永3年(1184)4月15日には保元の乱の古戦場である春日河原に「崇徳院廟」(のちの粟田宮)が設置されました。この廟は応仁の乱後に衰微して天文年間(1532-1555)に平野社に統合されました。「地蔵堂」
また崩御の直後に地元の人達によって御陵の近くに建てられた頓証寺(現在の白峯寺)に対しても官の保護が与えられました。(地蔵堂には大日如来、地蔵、阿弥陀如来などの石像が祀られ、幼児の夜泣き封じのご利益があるとされます。)
崇徳上皇は、近世の文学作品の『雨月物語』、『椿説弓張月』などにおいても怨霊として描かれ、現在でも様々な作品で菅原道真や平将門と並ぶ日本三大怨霊とされています。『讃岐に流された崇徳上皇』(歌川国芳画)
下は、崇徳上皇が讃岐で崩御し、怨霊になる瞬間を描いた『椿説弓張月』の一場面(歌川芳艶画)です。
安井金毘羅宮の北の御廟前通に「崇徳天皇御廟」があります。讃岐に流され悲嘆の日々を送った崇徳上皇は、血書をもって都への還幸を願いましたが、聞き入れられず天皇家を呪いながら讃岐で憤死したといわれています。
上皇の寵愛を受けた阿波内侍(あわのないし、信西の娘)は遺髪を請い受け、この地に一塚を築き、亡き上皇の霊を慰めたと伝えられています。その後、阿波内侍は壇ノ浦で入水するも助けられて大原で出家した建礼門院に仕えました。
後白河法皇が大原の建礼門院を訪ねるシーンはよく知られています。建礼門院は平清盛の娘で高倉天皇の后、壇ノ浦で亡くなった安徳天皇の母、後白河法皇は舅(しゅうと)にあたります。向うは安井金毘羅宮、写真はもう一度三十三間堂に戻ります。
後白河法皇は平清盛の死から始まる源平の盛衰の時代を乗り越え、1190年上洛した鎌倉幕府将軍・源頼朝と院御所の六条殿で対面します。頼朝は法皇に忠誠を誓い、法皇は頼朝を参議・中納言を飛ばして権大納言に任じたといわれています。
1192年、幕府の支援により戦乱と地震で荒廃していた法住寺殿が再建されます。後白河法皇は完成した法住寺殿に移り、造営を担当した中原親能(ちかよし)・大江広元に剣を下賜し、丹後局・吉田経房は頼朝に感謝の書状を送りました。
ところが法住寺殿に戻ってすぐに、後白河院は病にかかりました。平癒を祈って非常大赦が出され、崇徳上皇の廟と藤原頼長の墓への奉幣、安徳天皇の御堂建立なども行われましたが、容体は回復しませんでした。
法皇は溺愛していた丹後局との子・覲子内親王を先例を破って女院(宣陽門院)とし、覲子の将来を後鳥羽天皇に念を押し、丹後局に譲った所領を改めて安堵する文書を出して、1192年3月に66歳で亡くなりました。「後白河法皇800年聖忌記念」
「安井金毘羅宮」 後白河法皇が詔(みことのり)を残し、後の建治年間(1275-77)に光明院観勝寺が建立されたのが始まりとされます。安大円法師がこの地にあった観音堂に参拝した際に、無念の死をとげた崇徳上皇の霊が現れたことがきっかけでした。
配流先の崇徳上皇が一切の欲を絶って国家安泰を祈願したことにちなんで、安井金毘羅宮は断ち物の祈願所となりました。下は、昭和53年(1978)に設置された縁切り縁結びの碑(いし)。
堀川今出川の東にある「白峯神宮」は明治天皇が創建した崇徳上皇を祀る神社です。明治時代が始まるための、ある意味で大事な役割を果たしました。この場所は蹴鞠の流祖・飛鳥井家の跡地です。「一の鳥居」
幕末の緊迫した情勢のなか、孝明天皇は非業の死をとげた崇徳上皇の御霊を慰め、未曾有の国難に加護を祈るため、讃岐(香川県)の「白峰山陵」から御霊を京都に遷そうとしましたが、病で急死して叶いませんでした。「拝殿」
崇徳上皇の死後、約100年ごとに朝廷を脅かす大きな災いや争乱が起きます。13世紀中期の元寇、14世紀中期の南北朝の争乱、15世紀中期の応仁の乱、16世紀中期から後期の戦国時代です。その後の200年間は平穏ともいえますが、朝廷の権限が奪われた時期です。
19世紀中期から後半は、尊王攘夷運動が高まり、朝廷の権限が復活しようとする時期でしたが、外国からの圧力も増し、長州藩の御所侵入(蛤御門の変)で都が焼け野原となりました。この事件は崇徳天皇没後ちょうど700年目でした。
この時代になっても崇徳天皇の祟りを信じる人が多く、孝明天皇は、崇徳上皇の悲願であった都への帰還を許す意味で、その御霊を京都に戻し祀ることを提案しました。しかし慶応2年(1866)12月に急死してしまいます。
慶応3年1月に明治天皇が践祚(せんそ、非公式に皇位を継承)、慶応3年10月14日に大政奉還、12月9日に王政復古の大号令を発し、新政府樹立を宣言しました。
慶応4年正月に新政府軍と旧幕府勢力との間で鳥羽・伏見の戦いが発生し、新政府軍が旧幕府軍を京都から撃退した時期の慶応4年8月26日、明治天皇は讃岐に勅使を派遣しました。崇徳上皇の命日です。「本殿」
勅使の言葉は、霊をお鎮めするために都に新宮を建設したので、長く天皇と朝廷をお守りいただき、官軍に刃向かう陸奥出羽の賊徒(奥羽列藩同盟)をすみやかに鎮定してくださいという意味だったそうです。
明治天皇はその翌日に即位して、1月1日にさかのぼって明治と改元しました。つまり、明治天皇にとって、明治という時代が始まる前に、崇徳上皇の霊を京都に祀る白峯神宮を創建する必要があったのです。
最後の写真は崇徳上皇の歌碑と「崇徳天皇欽仰之碑」 欽仰(きんぎょう)とは、崇拝し慕うことだそうです。
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コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
三十三間堂へは行ったことがないのですが
毎年正月15日に近い日曜日に三十三間堂
の通し矢のニュースがテレビで放送されま
すね。後、4か月ほどですね。
ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2024年9月10日 (火) 00:14
毎日の更新、ありがとうございます。
今回の崇徳院さんの記事、大変興味深かったです。
上方落語にも「崇徳院」という噺があります。
こちらは怨霊とはかけはなれた内容ですが
この噺を聴いた後は「瀬をは~やみ」が耳から離れません。
今は鎮まって下さっているのかな、そうであってほしいです。
残暑が続きます。ご自愛くださいませ
投稿: もっちゃん | 2024年9月10日 (火) 09:57