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2024年9月 8日 (日)

崇徳天皇の旧跡を訪ねて その2 保元の乱

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事では、崇徳天皇は鳥羽天皇の第一皇子として生まれ5歳で即位、10歳の時に摂政・藤原忠通の長女の藤原聖子が入内しました。しばらく写真は鳥羽上皇の院政の地の鳥羽離宮・東殿にあった「安楽寿院」です。

TOPは鳥羽離宮跡から出土した遺物の収蔵庫の前庭で、出土した庭石を用いて当時の鳥羽離宮の庭園が再現されています。

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その年に、子、孫、ひ孫の堀河、鳥羽、崇徳天皇の3代にわたって院政を敷いた白河法皇が崩御、鳥羽上皇(法皇)の院政が始まります。崇徳天皇22歳のときに譲位させられ上皇となり、鳥羽上皇が寵愛する美福門院の子・近衛天皇が即位します。(安楽寿院の山門)

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しかし、久寿2年(1155)7月23日、病弱だった近衛天皇が17歳で崩御し、後継天皇を決める王者議定が開かれたところまでが昨日です。参加したのは久我雅定と三条公教で、いずれも美福門院と関係の深い公卿でした。

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後継の候補としては崇徳上皇の第一皇子である重仁親王が有力、と書きましたが、重仁親王は中宮・藤原聖子ではなく女房・兵衛佐局との皇子でした。「薬師堂」

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王者議定では、美福門院のもう一人の養子である守仁親王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁(まさひと)親王が立太子しないまま29歳で即位することになりました(後白河天皇)。

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この背景には、崇徳上皇によって自分の思うどおりにならなくなることを危惧した美福門院の意向。さらに、藤原氏の内部抗争で父の藤原忠実と弟の頼長によって苦境に陥り、崇徳上皇を良く思わない兄の藤原忠通、 「太子堂」

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雅仁親王の乳母の夫で権力の掌握を目指す信西らの策謀があったと考えられています。この決定によって崇徳上皇が治天の君となる(院政をしく)可能性が完全に消滅しました。

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守仁親王が直ちに即位して成人前に鳥羽法皇が崩御した場合には、崇徳上皇が治天の君となれる可能性がありましたが、父親でかつ成人している雅仁親王が即位したことでその可能性がなくなったのです。「三宝荒神社」

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一方、白河法皇が崩御し、藤原頼長の異母姉・泰子が鳥羽上皇の皇后となったことで藤原氏は息を吹き返していました。しかし、この重要な議定に藤原氏長者で左大臣、公家の筆頭である頼長は出席していませんでした。

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頼長は意欲的に学術の再興、政治の刷新を目指しましたが、律令や儒教の論理を優先し慣例を無視する姿勢に貴族の中で次第に孤立していきました。さらに近衛天皇もあからさまに頼長を嫌うようになっていたといわれています。平安時代末期の石仏

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このころ、世間には近衛天皇の死は藤原忠実・頼長が呪詛したためという噂が流され、頼長は事実上の失脚状態となっていました。(ここからしばらくは京都市動物園で、白河法皇が建立した法勝寺の跡地に建造されました。

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口寄せによって現れた近衛天皇の霊は「何者かが自分を呪うために愛宕山の天公像の目に釘を打った。このため、自分は眼病を患い、ついに亡くなるに及んだ」と述べ、調べてみると確かに釘が打ちつけられていました。ここには八角九重塔がありました。

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住僧に尋ねてみると「5〜6年前の夜中に誰かが打ち付けた」と答えたといいます。しかし、歴史学者たちは、事件が忠通や信西による謀略であると見ているそうです。

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保元元年(1156)5月、鳥羽法皇が病に倒れ、7月2日申の刻(午後4時頃)に崩御。崇徳上皇は臨終の直前に見舞いに訪れましたが、対面でず、憤慨して鳥羽田中殿に引き返しました。

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法皇が崩御して程なく事態は急変します。7月5日「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という噂が流されました。上皇が左大臣(頼長)と一緒に軍事クーデターを起こそうとしているという噂です。

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法皇の初七日の7月8日には、藤原忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が摂関家の正邸・東三条殿に乱入して邸宅を没収するに至りました。

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当時、頼長が所有していて没収された屋敷「東三条殿」は現在の大将軍神社(東山三条)の場所にありました。(上と下の写真)

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7月9日の夜中、崇徳上皇は少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある統子内親王の御所「白川北殿」に逃げ込みました。すでに「上皇左府同心」の噂が流れていることから、鳥羽にいれば拘束される危険があったための脱出だと思われます。

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白河北殿は京都大学熊野寮の辺りにありました。下は平安京オーバーレイマップで、朱色が平安時代の建物です。中央の縦長の矩形が白河殿で、上半分が北殿です。上の写真は東大路から丸太町通を西に歩いています。

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7月10日には、藤原頼長が宇治から上洛して白河北殿に入り、崇徳院の側近である藤原教長や平家弘・源為義・平忠正などの武士が集結しました。(白河北殿跡の右下の4分の1が熊野寮の敷地で、下はその表門。)

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崇徳上皇方に参じた兵力は弱小で、上皇は今は亡き平忠盛が重仁親王の後見だったことから、忠盛の子の清盛が味方になることに一るいの望みをかけていました。

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しかし、重仁親王の乳母・池禅尼は上皇方の敗北を予測して、子の平頼盛に清盛と協力することを命じたそうです。「此付近 白河北殿址」の石碑、上のオーバーレイマップの中央上に青色で書かれています。

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後白河天皇方は、崇徳上皇の動きを「先日からの噂は、すでに本当だということが分かった」として、武士を動員して11日未明、白河北殿へ夜襲をかけました。(熊野寮に沿って南に歩きます。)

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白河北殿は炎上し、崇徳上皇は御所を脱出して行方をくらましました。(下は熊野寮の西南の角で、白川北殿の南端にあたります。)

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崇徳上皇は源為義・平家弘らに守られ東山の如意山に一旦逃れますが、投降を決意して剃髪して武士らと別れ、仁和寺に出頭して、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼しました。しかし覚性は申し出を断り、上皇は源重成の監視下に置かれました。

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上皇が剃髪して投降した背景には、薬子の変で挙兵に失敗して出家した平城上皇が、実権を失いはしたが自ら選んだ隠棲地の平城京で手厚い待遇を受けて余生を送った先例があったからとされます。(上と下2枚は仁和寺。)

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しかし時代は異なり、上皇が出家をして法皇となっても院政を行う慣例が確立していたため、出家は権力放棄の保証になりませんでした。また、万一に守仁親王が死去した場合、中継ぎとして即位した後白河天皇の立場の根底が崩れてしまいます。

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崇徳上皇は武士数十人が囲んだ網代車に乗せられ、鳥羽から船で讃岐国(香川県)へ下りました。天皇や上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱の淳仁天皇の淡路国配流以来、およそ400年ぶりの出来事でした。『天子摂関御影』より藤原為信画「崇徳院」

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「鼓岡(つづみがおか)神社」 讃岐へ配流された崇徳上皇が最期の6年間を過ごしたとされる終焉の地に造られた香川県坂出市にある神社です。この名は丘の頂上付近で地面を叩くと鼓のような音がしたからといいます。

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同行したのは寵妃の兵衛佐局と僅かな女房だけでした。その後、二度と京の地を踏むことはなく、8年後の長寛2年(1164)8月26日、46歳で崩御しました。 「崇徳天皇白峰御陵」(香川県坂出市)

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一説には、京からの刺客である三木近安によって暗殺されたともされ、その地に柳田として石碑が立っています(下の写真)。最後は『保元・平治の乱合戦図屏風 白河殿夜討(部分)」(江戸時代)メトロポリタン美術館所蔵。

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コメント

こんばんは。ゆーしょーです。
安楽寿院の中にキリンやシマウマもいるのですね。
メチャ珍しいです。 ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2024年9月 9日 (月) 00:03

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