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2024年9月27日 (金)

福王子神社 仁和寺の鎮守社と班子女王

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日は北嵯峨方面に行ってきました。最初に訪れたのはきぬかけの路と周山街道が交わる場所にある「福王子神社」です。平安時代前期の900年、光孝天皇の后で宇多天皇の母・班子(はんし)女王が亡くなり、その陵墓の地に女王を祀る神社として創建されました。

「鳥居」は江戸時代の1644年に建立された石造の明神鳥居で、重要文化財です。

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近隣の旧6ヶ村の氏神であるとともに、光孝天皇の勅願により建立が始まり、その遺志を継いだ宇多天皇により888年に完成した仁和寺の鎮守神となりました。

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光孝天皇は当初即位する可能性がありませんでした。しかし、当時摂政として権勢をふるっていた藤原基経(もとつね)が、次期の天皇としてすでに50歳を過ぎた光孝天皇を指名しました。

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光孝天皇は基経の意を忖度して、関白という役職を作って基経を任命し、政治の実権をゆだねました。摂政は天皇が女性や子供、病気の場合にその補佐をする役職でした。

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さらに、子供たち全てを臣籍降下(皇族ではなく)して、皇位に就かせない意思を示しました。光孝天皇は後継を指名せずに887年に亡くなりました。

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「拝殿」は柱間がすべて開放の小規模で簡素な建物ですが、仁和寺の諸堂と共に寛永年間(1624-1645)の再興時に建てられたもので、重要文化財に指定されています。(屋根の葺き替え工事をしていて、昼休み中でした。)

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光孝天皇の死の直前、関白藤原基経は、仲が悪かった妹藤原高子の子で、陽成天皇の弟であった貞保親王が皇位に就くことを嫌い、臣籍降下していた定省親王を皇族に復帰させ、即日宇多天皇となりました。「玉垣の修復奉納記念碑」

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宇多天皇は897年に突然皇太子敦仁親王を元服させて、即日譲位して醍醐天皇が誕生しました。 その理由は、以前は仏道に専念するためといわれていましたが、近年では藤原氏からの政治的自由を確保するためという説が有力となっているそうです。

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宇多天皇は菅原道真を重用するように申し伝え、醍醐天皇は藤原時平を太政官最上席の大納言に、菅原道真をその次席の権大納言に任じ、朝政を二人で牽引するよう命じましたまし。 「神輿庫」

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こうして、班子女王は皇后から皇太后(天皇の母)、太皇太后(天皇の祖母)となり、次第に発言力を増してきました。897年に醍醐天皇に娘・為子内親王を入内させ、藤原時平による妹・穏子の入内を拒み続けました。「神器庫」?

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班子女王は仁和寺で出家し御室に過ごし、900年に68歳で亡くなりました。穏子が入内を果たしたのは班子女王の没後です。藤原氏が権力を増していく中で朝政改革を行う天皇らを支え、平安文化の興隆にも貢献しました。

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末社の「夫荒(ぶこう)神社」は夫荒神を祀ります。平安時代に山中の氷室(氷の貯蔵庫)から宮中へ氷を献上する習わしがあり、その運搬の際に命を落としたものたちの霊を祭り、安全を祈願するために設けらました。

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当時は都の近くに6か所も氷室があり、800人の役人と役夫によって毎日500~800kgの氷が宮中に届けられたといわれます。酷暑の中で重い氷塊を運ぶ作業は過酷で、役夫や馬が犠牲となることもありました。

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そのように氷が高嶺の花の時代、庶民が白ういろうに大豆をのせ三角に切って氷菓子に見立てたのが、夏の京菓子「水無月」の始まりといわれています。末社の手前のさざれ石は化石が集まってできた岩で、保津峡両岸の岩壁と同じものだそうです。

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絵馬の宝船の絵は、富岡鉄斎の描いた宝船を木彫りの版画で刷ったものを原画にしています。

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福王子神社の社殿は室町時代の1468年に応仁の乱で焼失。江戸時代前期の1664年徳川3代将軍家光の寄進によって再建され現在に至っています。

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「本殿」は一間社春日造、屋根は 珍しい木賊(とくさ)葺で(見えませんが)、重要文化財に指定されています。祭神として福王子大明神(班子皇后)を祀っています。

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石燈籠2基も本殿の附(つけたり、附属物)として重要文化財です。重要文化財の建物が(鳥居も含めて)3棟あり、重要文化財の建物が0軒という県もある中で、福王子神社は小さいながら特別な神社ともいえます。

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平成12年(2000)班子皇后没後1100に合わせて本殿、拝殿とともに金銀の狛犬と獅子が修復され、その時の調査で台座裏に寛永21年(1644)の墨書銘が確認されました。(2枚の写真を合わせています。)

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写真を撮っていると、宮司の奥様が社務所に招き入れてくれました。玄関の右上に、先ほどの絵馬の原画となった富岡鉄斎の版画が飾ってありました。

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大きな「鳴滝砥石」の扁額が飾ってありました。この石は、音戸山・梅ケ畑・高雄と連なる山並みの中腹から産出され、きめ細かで適度の硬さと吸水性があり、剣や刀など鋭利な刃物を研ぐ上質な砥石として京都の特産品として珍重されてきました

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大正13年に奉納され、表面には、仁和寺第37代浦上隆應門跡の揮毫による「遍照」の文字が刻まれています(以前は拝殿に掲げられていました)。横の掛け軸も隆應門跡の揮毫です。(あらかじめ申し込めば、これらを見せていただけるそうです。)

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福王子神社の秋期大祭では、神輿巡行の神事が行われます。神輿に班子女王の神霊を乗せて、仁和寺勅使門より参内します。(下は以前の写真で、勅使門から人が入ってくるのを始めて見ました。)

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宸殿の前で福王子神社からの奉幣を仁和寺が受けとる儀式が行われます。毎年、仁和寺で将棋の竜王戦の第2局が行われます。宮司の奥様は、中継で床の間に飾ってある福王子神社の奉幣が写っていたのを密かに嬉しく思っていたそうです。

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福王子神社の秋季大祭は、福王子神社の祭神・班子皇太后と仁和寺を創建した宇多法皇の、年に一度の母子の対面の塲でもあります。最後に、仁和寺門跡と福王子神社宮司が挨拶をしています。

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コメント

こんばんは。ゆーしょーです。
仁和寺へは昔一度行ったことがありますが
福王子神社は全く知らないです。京都には
寺は勿論のことですが、神社も多いですね。
ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2024年9月28日 (土) 00:01

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