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2024年9月 7日 (土)

崇徳天皇の旧跡を訪ねて その1

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

「崇徳天皇」(1119-1164)は平安時代後期の鳥羽天皇の第一皇子で母は中宮・藤原璋子(待賢門院)。平安時代末期の保元の乱で後白河天皇に敗れ、讃岐に配流され失意のうちに亡くなりました。日本三大怨霊の一人として知られています。

三大怨霊とは、他に菅原道真と平将門です。記事の最初の部分の写真は「鳥羽離宮跡公園」です。

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鳥羽離宮は白河上皇が院政をしいた鳥羽天皇の頃(12世紀)から14世紀まで代々の上皇により使用された院御所で城南離宮とも呼ばれます。後で出てくる城南宮はこの跡地の中心に建てられています。

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NHKの大河ドラマの舞台である藤原氏の摂関政治は道長の子の頼道で終わり、幼い天皇を補佐する上皇が実権を握る院政時代が始まります。上皇が、皇位継承者や摂関およびそれ以外の人事指名も行うようになりました。

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崇徳天皇は、白河上皇の院政時代の元永2年(1119)に生まれ、保安4年(1123)1月28日に皇太子となり、同日、鳥羽天皇の譲位により践祚(せんそ)、2月19日に数え5歳(満3歳7か月)で即位しました。

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践祚は皇位を継承すること、即位は三種の神器の継承など即位式を経た皇位継承です。践祚だけの天皇も何人かいます。大治4年(1129)摂政・藤原忠通の長女の藤原聖子(皇嘉門院)が入内。同年白河法皇が亡くなり鳥羽上皇が院政を開始します。

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城南宮の北を通る新城南宮道と油小路通との交差点の北西に「白河天皇成菩提院(じょうぼだいいん)陵」があります(上と下の写真)。白河法皇は、堀河、鳥羽、崇徳天皇の3代にわたり院政をしき、77歳で崩御しました。

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京都御苑の西の烏丸通に面して私学共済の施設「京都ガーデンパレス」があり、誰でも宿泊することができます。そのエントランス(下の写真の右)に「土御門内裏跡」という石碑が立っています。

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「土御門内裏」は鳥羽・崇徳・近衛3代の天皇が約24年間にわたって利用した一町四方の里内裏です。「里内裏」とは内裏以外に置かれた天皇の住まい(皇居)を表し、「里」は平安京の四角い街区のことで、平安京内に置かれた内裏という意味です。

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「みやこめっせ(京都市勧業館)」の東の児童公園内に「成勝寺跡」の石碑があります。保延5年(1139)崇徳天皇の勅願寺・成勝寺が建立されました。六勝寺の他は、白河、堀河、鳥羽、近衛天皇と鳥羽天皇中宮待賢門院藤原璋子の寺です。

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崇徳天皇と聖子との夫婦仲は良好でしたが子供は生まれませんでした。院政開始後の鳥羽上皇は藤原得子(美福門院)を寵愛して、永治元年(1141)崇徳天皇に譲位を迫り、得子が生んだ躰仁(なりひと)親王を即位させました(近衛天皇)。「城南宮」

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下は鳥羽離宮の再現図で、崇徳上皇は北の田中殿に居を構えたと考えられています。躰仁親王は藤原聖子の養子となっており、崇徳天皇とも養子関係にあったと考えられます。譲位の宣命には 「皇太子」ではなく、「皇太弟」と書かれていました。

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皇太弟は天皇が弟(義理の弟)という意味で、将来の院政が不可能となり、崇徳上皇にとってこの譲位は大きな遺恨となりました。ちなみに、秋篠宮殿下は皇太弟ではなく「皇嗣」という地位につき、皇位継承が可能となっています。城南宮の拝殿

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崇徳天皇は在位中から頻繁に歌会を催し、躰仁親王が即位してからは和歌の世界に没頭、『久安百首』を作成し『詞花和歌集』を撰集しました。鳥羽法皇が和歌に熱心でなかったことから、当時の歌壇は崇徳上皇を中心に展開しました。城南宮の本殿

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嵯峨野の長神の杜に歌碑があります。崇徳院「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われてもすえに 逢はむとぞ思ふ」(小倉百人一首)。千載集には多数の和歌が集録されていますが、一つだけ「もみぢ葉の 散りゆくかたを 尋ぬれば 秋もあらしの 声のみぞする」

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鳥羽法皇は崇徳上皇に対して鷹揚な態度で接し、上皇の第一皇子・重仁親王を美福門院の養子に迎えました。これにより近衛天皇が継嗣のないまま崩御した場合には、重仁親王への皇位継承も可能となりました。(城南宮の東にある「安楽寿院」の西門)

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重仁親王が皇位継承すれば崇徳天皇が上皇になる可能性が復活します。上の門を入った右手に「白河法皇・鳥羽法皇 院政跡地」の石碑があります。このあたりは、白河上皇(法皇)が造営を始め、鳥羽上皇が完成させた鳥羽離宮内の御所・東殿の中心地です。

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近衛天皇の行幸に際して、鳥羽法皇は崇徳上皇を臨席させ、上皇の后の聖子を近衛天皇の母親として同居させるなど、崇徳上皇夫妻を天皇の父母と位置づけて接していたといわれています。(鳥羽離宮跡の発掘で出土した遺物をおさめる収蔵庫)

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近衛天皇が健在だったこの時期においては、崇徳上皇は鳥羽院政を支える存在とみなされ、両者の対立はまだ深刻な状況にはなかったという説もあります。安楽寿院の「太子堂」、安楽寿院は鳥羽離宮の東殿の御堂(仏教施設)でした。

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久寿2年(1155)7月23日、病弱だった近衛天皇が17歳で崩御し、後継天皇を決める王者議定が開かれました。下は「近衛天皇安楽寿院南陵」。

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候補としては崇徳上皇の第一皇子である重仁親王が有力でしたが、事態は崇徳上皇の望まない方向に進みます。今日はここまでです。最後は安楽寿院の山門。

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コメント

こんばんは。ゆーしょーです。
終戦後の教科書もないどさくさの頃、
勉強しなければならない一番肝心な
時に勉強出来なかったので歴史(国史)
など皆目知らないのです。
が、崇徳天皇の名前はよく知っています。

投稿: ゆーしょー | 2024年9月 7日 (土) 22:30

ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2024年9月 8日 (日) 01:50

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