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2024年8月30日 (金)

建仁寺 方丈の襖絵と小泉淳作

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※写真は全てクリックで拡大します。

花見小路通の南端に建仁寺の北門があります。「建仁寺」は建仁2年(1202)鎌倉幕府将軍・源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として建立しました。元号を寺号とする名誉を与えられ、創建時は天台・密教・禅の三宗兼学の道場でした。

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その後、寛元・康元年間(1243-47、1256-57)の火災等で境内は荒廃するも、正嘉元年(1258)東福寺開山・円爾弁円(えんにべんえん)が入寺して復興、禅も盛んとなりました。(拝観受付がある庫裏)

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下は本坊の拝観領域の見取り図で、右下の入口の正面にビデオルームがあり様々な企画が行われます。

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この日は「小泉淳作生誕100年 記念特別展」が行われていました。2012年に逝去されてから十三回忌にもあたります。下は「濤声(とうせい)」(1992年)。

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小泉淳作は、日本画家、陶芸家で、特定の美術団体に属さず画壇とも距離をおき「孤高の画家」とも呼ばれました。戦時中の昭和18年、慶応大学を中退し東京美術学校日本画科に入学。(下は展覧会の協賛の関彰商事のために描いた風呂敷の下絵。)

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昭和19年(1944)世界大戦のために召集となるも結核で療養生活に入ります。陸軍予備士官学校の経験からか戦争には強烈な嫌悪感を抱いていたといわれます。(下は法堂の天井画の蒼龍図、この日は法堂には入っておらず下は過去の写真です。)

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その後、デザイナーとして活動。1954年第18回新制作展に「花火」「床やにて」が初入選。1977年第4回山種美術館賞展で「奥伊豆風景」が優秀賞を受賞。1996年から建長寺開創750年記念事業の一環として法堂の天井画の雲龍図を手がけ、

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2000年に完成させました。2004年、第14回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞を受賞、2012年1月9日、肺炎のため死去しました。下は建仁寺のポスターにならって彩色したものです。

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建仁寺の歴史にもどり、正元元年(1259)宋の禅僧、建長寺開山・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺してからは禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となりました。(方丈に向かいます。)

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やがて室町幕府により中国の制度にならった京都五山が制定され、その第三位として厚い保護を受け大いに栄えますが、戦乱と幕府の衰退により再び荒廃します。(方丈の前庭)

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方丈は慶長4年(1599)恵瓊(えけい)が安芸の安国寺から移築、優美な銅板葺の屋根が印象的な禅宗方丈建築です。障壁画は全て安土桃山時代の建仁寺復興の際に、絵師・海北友松(かいほうゆうしょう、1533-1615)が描いたものです。

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上と下2枚は方丈の南東にある「礼の間」の「雲龍図」(重文)、京都国立博物館に収蔵、展示は高精緻の複製です。

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建仁寺は、安土桃山時代の天正年間(1573-1592)に、安国寺恵瓊(えけい)が方丈や仏殿を移築して復興が始まりました。徳川幕府の保護のもと堂塔が再建・修築され制度や学問が整備されました。

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明治時代になり、政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派が分派独立、建仁寺はその大本山となりました。(下は方丈の室中で以前にビデオルームで展示されていた金澤翔子書「風神雷神」がありました。)

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室中の中央には本尊として、東福門院寄進の十一面観音菩薩像を祀っています。東福門院は徳川2代将軍・秀忠の娘で、後水尾天皇の皇后です。奔放で幕府と対立する後水尾天皇と徳川家との間を取り持つために奔走したといわれます。

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また、神仏分離令後の廃仏毀釈により塔頭の統廃合が行われ、余った土地は政府に没収され、境内が半分近く縮小されて現在にいたります。

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方丈の「室中」の襖には「竹林七賢図」が描かれています。竹林七賢とは、中国の魏晋の時代(3世紀半ば)国難を避けて、竹林の中に入り、酒を飲み、楽を奏で、清談(俗世から超越した談論)にふけった七人の賢者のことです。

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方丈の前庭は「大雄苑(だいおうえん) 」と呼ばれます。昭和15年(1940)に作庭された枯山水式庭園で、白砂地に縁苔、巨岩を配し、中国の百丈山の眺めを模しています。正面は「唐門」、向うの屋根は法堂です。

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南西の「檀那の間」の「山水図」 下は水景と楼閣滝の場面、溌墨草体(墨のにじみ、かすれで表現)で淡墨を基調に濃墨の巧みなアクセントが入り、大きな余白も効果的で、友松様に昇華された画風だそうです。 

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庭の南西隅に七重の塔があります。織田有楽斎が兄の信長追善のために立てた供養塔で、1898年に開山堂の南からここに移されました。

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ここから庭に下りて方丈の北にある茶室に行くことができますが、この日は訪れていません。外縁を通って方丈の北に回ります。

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北西の隅の「衣鉢の間」の「琴棋(きんき)書画図」 本作品のみが著色画ですが、狩野派とは大きく異なり水墨画的要素をとどめています。主題を画面中心部(写真では右)に集め両端に空間が広がっているのは狩野派の構図では珍しいそうです。

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方丈の北庭に「納骨堂」があります。昭和39年(1964)建造で、この辺りは紅葉が美しい場所です。

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下は「裏の間」の「対島行列輿」。徳川幕府は五山派の寺院に一定の禄を与え、漢文に秀でていることから朝鮮との外交職「対州修文職」に任じました。五山の僧は輪番で対島にある寺院「以酩庵(いていあん)」に赴任、その際の輿です。

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北の隅の「書院の間」の障壁画「花鳥図」 西側の大小の壁貼付絵二面と襖絵二面には二本の松を生やす盛り上がった地面から今まさに飛び立たんとする孔雀を描いています。このあと、本坊に入りました。

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コメント

こんばんは。ゆーしょーです。
建仁寺へは行ったことがないです。
すごく立派なお寺ですね。

投稿: ゆーしょー | 2024年8月30日 (金) 19:20

ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2024年8月31日 (土) 04:00

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