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2024年8月 2日 (金)

矢田寺と寺町通商店街4

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の天性寺を出て再び寺町通商店街を歩きます。下は「文具店tag 寺町三条店」、

文具店TAGは京都を中心に大阪・兵庫・滋賀・奈良・東京・静岡にも店舗を構えています。寺町三条店は2018年にオープン。筆記具やファイルなどはもちろん、店舗用品・OAサプライズ・家具まで幅広い商品を取り扱っています。

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「ルピシア 京都寺町三条店」 ルピシアは、世界各国の産地から厳選した年間400種類以上の紅茶を販売しています。全国140店舗以上、フランス、アメリカ、オーストラリアなど海外にも展開しているそうです。

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「とり市老舗」 京都の四季特産品の専門店として、春は洛西塚原産朝堀り竹の子、夏は賀茂なすなど京野菜、秋は洛北じ山松茸、冬は京名産千枚漬を販売、全国発送も承っています。

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向かいにある「直曾・撰」はとり市老舗が最近開業した京料理店で、竹の子、賀茂なす、松茸、千枚漬など旬の楽しさを料理を通じて味わうことができます。左の窓に竈土(おくどさん)が見えます。

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「京屋スポーツ」 1948年創業の老舗のスポーツ用品店です。なつかしい野球チームのユニフォームや帽子の注文販売が人気だそうです。ネットでも購入可能とか。

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矢田寺」は山号を金剛山という西山浄土宗の寺院で、洛陽四十八願所地蔵めぐり(京都四十八願寺)の第28番札所です。

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矢田寺の創建は古く、平安時代の初め(845年)大和国・矢田山金剛山寺(こんごうせんじ)の別院として五条坊門(下京区)に創建されたのが始まりです。開山は金剛山寺の住持・満慶(まんけい)上人です。

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本尊の地蔵菩薩(矢田地蔵)は、満慶上人が地獄で見た亡者を救う僧侶の姿を彫らせたものだそうです。代受苦(だいじゅく)地蔵とも呼ばれ、人々の苦しみを代わってくださるといわれています。

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一度お参りすると、10種の福を得、8大恐怖を取り除き、28種のご利益があるとされます。特に、縁結び、安産守護、学業成就、病気平癒、土地豊穣、家宅永安、子孫繁栄などの信仰があるそうです。

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満慶上人が地獄に行った理由は、閻魔大王から冥界で菩薩戒(菩薩が守るべき戒律)を授ける者を尋ねられた小野篁が、満慶上人を紹介したからです。満慶上人は六道珍皇寺の井戸から冥途に出かけ、閻魔大王に菩薩戒を授けたといいます。「水子地蔵」

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閻魔大王が礼を与えるというと、満慶は地獄を訪れたいと申し出て、阿鼻城で人々に代わり責め苦を受ける地蔵菩薩を見ました。

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炎熱地獄では亡者を救出する一人の僧を見ました。僧は自らを地蔵菩薩といい、娑婆で衆生を救うために上人に帰ったら地蔵菩薩像を造るようにと伝えたのです。

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また、閻魔大王は土産に箱を与えました。箱には米が入っており、取り出しても減ることがなく、食い逸れがなかったといいます。そのため、満慶は満米(まんまい)上人ともよばれたといいます。

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南北朝時代(1359年)に鋳造された「梵鐘」は、六道珍皇寺の「迎え鐘」に対して「送り鐘」と呼ばれています。8月16日の精霊送りの日、あるいは葬礼の精霊送りの時にも撞かれ、死者の霊を迷わず冥土へ送るのだそうです。

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矢田寺はその後衰退し、南北朝時代の1359年に綾小路西洞院矢田町で復興されました。室町時代(1417年)に焼失後、綾小路町尻(下京区矢田町)に移りました。「ぬいぐるみ地蔵」

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さらに、安土桃山時代、(1579年)豊臣秀吉の都市改造により現在地に移されました。ぬいぐるみ地蔵は、胎内にお札が入っていて、お守りにして持ち帰るか奉納します。手作りなので、すべて表情が違うそうです。

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江戸時代には、宝永の大火(1708年)、天明の大火(1788年)、蛤御門の変(1864年)で焼失しますが、その都度再建されました。

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「しあわせ大日如来」 密教では大日如来は宇宙の真理を現し、宇宙そのものを指し、すべての命あるものは大日如来から生まれたとされます。現世安穏、所願成就のご利益があるとされます。  

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ところで、左手前の石柱に「東山若王子」と刻んであります。上の部分が切り取られていて、正東山若王子のことだと思われます。熊野若王子神社は、江戸時代まで聖護院門跡院家として「正東山(しょうとうさん)若王子乗々院」という名でした。

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明治初年の神仏分離令によって神社だけが残り、観音菩薩像や鰐口とともに碑(いしぶみ)が矢田寺へ移されたという記録があります。こちら側には、「所第一番」とありますが、洛東三十三所第一番(若王子観音)が削られたものと思われます。

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数年前まで哲学の道の南端近くに「若王子観音」の石標がありました(下の写真)。かって俳優・栗塚旭が経営していた喫茶店への降り口の近くです。若王子観音はかって「洛陽三十三所観音霊場」の札所だったという記録があります。

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洛陽三十三所観音霊場も廃仏毀釈の中で廃寺となる寺が多く中断、2005年に復活しました。このとき、できるだけ江戸時代の札所を再現し、廃寺などにより札所本尊が別の寺に移動した場合は、その寺を札所としました。

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もし矢田寺に若王子観音が残っていれば、矢田寺が洛陽三十三所観音霊場の札所になっていたと思われます。下2枚は熊野若王子神社から鹿ヶ谷通に出る交差点で見つけた壊れた石灯籠です。

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鹿ヶ谷通の方には「若王子社」、南側には「正東山」と刻んであります。おそらくここから若王子観音への道しるべになっていたと思われます。若王子観音の行方は分かりませんが、いつか発見されることを願っています。

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寺町専門店会商店街の南端にある「中京警察署三条寺町警察官立寄所」、「さんてら番屋」とよばれ商店街の治安を守っています。寺町通の商店街は、ここから「寺町京極商店街」と名前を変えます(最後の写真)。

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コメント

ぬいぐるみ地蔵は、いつ見ても可愛いですよね。

投稿: munixyu | 2024年8月 2日 (金) 18:12

こんばんは。ゆーしょーです。
寺町というだけあってこの付近には
沢山のお寺があるのですね。
めちゃめちゃ立派なお地蔵様ですね。
矢田地蔵尊というのですね。
ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2024年8月 3日 (土) 00:23

この辺りは小学校が同じ学区で~す。
「矢田寺さん」は馴染みのお寺さんです。
厳しい暑さが続いています。私は半分とろけています。

投稿: Tacchan | 2024年8月 5日 (月) 16:04

★Taccha~n こんばんは♪
さすがTacchanやね。新京極、寺町、三条通、、お庭やし、歴史の舞台の地。お婆様が西郷隆盛を見たって言ってたもんね。
私なんかあほでね。昔やけど、、、
維新の「だれだれ遭難の地」って石碑が河原町通り、三条界隈に沢山あるでしょ。アレをね、、、
昔はこのあたり、よお雪が降ったんやね。。って思ってたよ。
私も、とろけるどころじゃありなせんよ、閉じこもってます。

投稿: りせ | 2024年8月 6日 (火) 21:54

★munixyuさん こんばんは♪
手作りなのでそれぞれの顔が微妙に違うのがいいですね。

投稿: りせ | 2024年8月 6日 (火) 23:58

★ゆーしょーさん こんばんは♪
寺町通専門店会の南の商店街にはお寺はありません。明治以降に一筋東に新京極通が造られて、移転させられました。

投稿: りせ | 2024年8月 7日 (水) 00:03

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