祇園祭2024 前祭山鉾巡行 後半
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昨日に続いて、河原町御池で見た祇園祭・山鉾巡行の後半です。「孟宗山(もうそうやま)」 「筍山」ともいい、ご神体は中国の史話二十四孝から取材。病身の母を養う孟宗が、雪の中で筍を掘りあてた姿をあらわしています。
ご神体の人形は七条大仏師康朝左京の作といわれ、唐人衣裳に笠をつけ右手に雪をかぶった筍、左手には鍬を肩にかついで立っています。
胴懸は平山郁夫筆の「砂漠らくだ行(日)」と「砂漠らくだ行(月)」。見送は昭和15年以来竹内栖鳳筆の白地墨画竹林図が用いられています。地味な墨画の見送は、極彩色豊かな他の山鉾のなかにあって、かえって異彩をはなっているとか。
「月鉾」 鉾頭の新月型(みかづき)からこの名で呼ばれ、真木のなかほどの「天王座」には夜の神・月読尊(つきよみのみこと)を祀ります。屋根裏の金地彩色草花図は天明4年(1784)円山応挙の筆。
前懸、後懸はインド絨毯、胴懸はインドやトルコの絨毯を用いており、北面の「中東蓮花葉文様」、南面の「幾何菱文様」とも最近の復元新調。近年下水引は皆川月華作の花鳥図に、見送も同作の湖畔黎明図にかえ、前懸のインド絨毯も復元されました。
「太子山」 聖徳太子が四天王寺建立にあたり、自ら山中に入って良材を求めたという所伝にもとづき、この山だけは真木に杉を立て、その樹に小さな如意輪観音像を祀っています。太子は少年像で右手に斧、左手に衵扇を持ちます。
前懸は緋羅紗地に阿房宮の刺繍、胴懸は金地孔雀唐草図のインド刺繍、見送は平成15年新調の波濤に飛龍文様錦織を用いています。またご神体の向こうに「舞台裏中釣幕」という懸装品があるそうですが見えませんでした。
「四条傘鉾」 織物の垂りなどをつけた傘と棒ふりばやしが巡行する古い鉾の形態の傘鉾の一つです。踊りとはやしは、室町時代に京都から広まった風流踊で、赤熊を被った棒振りと花笠を被った鉦、太鼓、ササラの各2人づつの計8人の小学生です。
傘の上には御幣と若松を飾ります。明治4年の巡行以来途絶えていましたが、昭和60年、町内の人々の努力が実り傘鉾の本体が再興。昭和63年から巡行に欠かせない踊りとはやしが復元され、32番目の山鉾として巡行に加わることになりました。
「蟷螂山(とうろうやま)」 カマキリが前脚をあげて大きな車に向かってきたという中国の故事があります。南北朝時代、足利義詮軍に挑んで戦死した当町在住の公卿、四条隆資(1292~1352)の戦いぶりが上の故事の「蟷螂の斧」のようであったことから、
渡来人で当町居住の陳外郎大年宗奇が卿の死後25年目の永和2年(1376)、四条家の御所車に蟷螂を乗せて巡行したのがはじまりといわれます。その後、焼失・再興を繰り返し、昭和56年に117年ぶりに再興されました。
かまきりと御所車の車輪が動くなど、山鉾としては、唯一のからくりが施されています。前懸、胴懸、見送は共に羽田登喜男作の友禅で、瑞苑浮遊図などがあります。
「菊水鉾」 町内に古くからあった井戸・菊水井にちなんで名付けられ、元治元年(1864)の兵火で焼失、昭和27年、88年ぶりに松本元治氏の熱意が実り再興されました。稚児人形は菊の露を飲んで長寿を保ったという枕慈童で能装束の舞姿です。
鉾頭には金色の透かし彫の菊花をつけ、真木のなかほどの天王座には彭祖像を祀っています。
昭和29年に皆川月華作唐獅子図の胴懸、飛鶴図の前懸が作られ、30年には月華作孔雀図の豪華な見送が完成。その後山鹿清華作の下水引、皆川泰蔵作の二番水引が加えられ、38年には三輪晁勢筆天井絵が制作されました。
近年、小林尚珉氏によって錺金具が製作され、最近晁勢筆の天水引、月華作の下水引、岩澤重夫筆の深山菊水図綴織見送があらたに完成しました。昭和の鉾として、年々装飾が充実してきたのが特徴です。
「木賊山(とくさやま)」 謡曲「木賊」から、我が子を人にさらわれて一人信濃国伏屋の里で木賊を刈る翁は、腰に蓑をつけ、左手に木賊、右手に鎌を持っています。水引は日輪鳳凰文様の綴錦及び道釈人物刺繍、前懸は唐人交易図刺繍。
左右の胴懸は平成11~13年に復元新調した中国故事人物図の綴織。見送は中国明代の牡丹双鳳文様綴錦。
「郭巨山(かっきょやま)」 中国の史話二十四孝の一人郭巨釜掘りの故事にちなみ、「釜掘り山」ともいわれます。ご神体(人形)の郭巨と童子は寛政元年(1789)金勝亭九右衛門利恭の作です。昭和58年から上村松篁原画による秋草図の前懸、
花の汀図および春雪図の胴懸、都の春図綴織の見送と順次新調されました。見送は今年の干支にあわせて、昭和56年(1981)染色作家 皆川月華製作の「昇り龍図染彩」です。
「占出山(うらでやま)」 「鮎釣山」ともいい、神功皇后が肥前国松浦で鮎を釣って三韓征伐の戦勝の兆としたという説話によります。
ご神体(人形)は金の烏帽子に太刀をつけ、右手に釣竿、左手に釣り上げた鮎を持っています。神功皇后は古くから安産の神として祀られ、山鉾巡行の鬮(くじ)順が早いとその年はお産が軽いといわれます。
水引(台座の上部)は三十六歌仙図の刺繍。前懸・胴懸は日本三景の綴錦で天保2年(1831)の制作です。見送は、近年復元新調した花鳥龍文様の綴錦です。
「放下鉾」 鉾の名は真木のなかほどの「天王座」に放下僧の像を祀るのに由来します。かつては長刀鉾と同様「生稚児」でしたが昭和4年以降稚児人形にかえられました。稚児人形は久邇宮多嘉王殿下より三光丸と命名され、
巡行の折には稚児と同様、鉾の上で稚児舞ができるように作られています。破風正面に三羽の丹頂鶴があり、幸野楳嶺(1844~95)の下絵を高浮彫し大正6年に完成しました。下水引は平成6年から栂尾高山寺の国宝華厳宗祖師絵伝を下絵にした綴織。
前懸・胴懸は花文様のインドやペルシャの絨毯、見送は文政11年(1828)京都西陣で作られたものです。
「岩戸山」 天岩戸を開いて天照大神が出現する日本神話から取材。山とはいえ室町時代狩野永徳の洛中洛外図屏風で見られる岩戸山にはすでに車輪が描かれており、鉾と同じ車をつけた曳山です。屋根には鉾柱ではなく真松が立っています。
中に白衣姿で胸に鏡をかけた天照大神と、脇に白衣に唐冠をかむった手力雄尊が祀られています。屋根の上には太刀をさし天瓊矛(あまのぬほこ)をつき出した伊弉諾尊を安置しています。天瓊矛は伊弉諾尊夫婦神が国産みにつかった神話の矛。
前懸は玉取獅子図中国絨毯、胴懸は唐草文様インド絨毯、見送は日月龍唐子嬉遊図の綴織(一部刺繍)を用いています。
最後の「船鉾」が来ました。神功皇后の三韓征伐の説話によって鉾全体が船の型になっています。鉾の上には皇后と陪従して皇后を守る磯良・住吉・鹿島の三神像を安置しています。舳先には中国の伝説の鳥・鷁(げき)、
艫には黒漆塗螺鈿の飛龍文様の舵をつけ、船端には朱漆塗の高欄をめぐらし、唐破風入母屋造りの屋根からは紅白の長旒・吹流しをひるがえします。鷁は宝暦年間(1751~64)長谷川若狭の作で、舵は寛政4年(1792)制作。
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最後の車両は信号機の向きを元どおりに変える作業車です。
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コメント
暑さは、大丈夫でしょうか。
大阪は、物凄く暑いので心配です。
熱中症も多いので、気をつけてくださいね。
投稿: munixyu | 2024年7月19日 (金) 20:20
こんばんは。ゆーしょーです。
今日の写真も素晴らしい写真ばかりです。
見とれています。 ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2024年7月20日 (土) 00:50