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2024年7月 3日 (水)

修学院離宮 下離宮

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日は修学院離宮に行ってきました。上は最も高い場所にある上離宮からの眺め、下は「参観受付」です。

修学院離宮は江戸時代前期の明暦元年から2年(1655-1656)にかけて後水尾上皇(1596- 1680)によって造営工事が始められ、万治2年(1659)頃に完成した山荘です。

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下は頂いたパンフレットから修学院離宮の略図で、赤線にそって下離宮、中離宮、上離宮の順に参観します。だだし、7月3日までは工事が行われて、昨日は青の迂回コースを歩きました。

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下離宮の拡大図です。参観者休所は下図の表総門の上(北)の建物になっていました。事前の参加申し込みにはインターネットと郵送があり、どちらもツアーの出発が9:00、10:00、11:00、13:30、15:00です。(詳しくは宮内庁のHPをご覧ください。)

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当日申込は出発が13:30と15:00でそれぞれ定員が35名となっています。だだし事前申込に空があった場合に加算され、今朝(7月3日)の時点で、それぞれ39,38名となっていました。「参観者休所」

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私はインターネットで13:30に出発するツアーに申し込みました。小雨が降っていましたが、あまり気になりませんでした。他の季節には訪れたことがありますが、緑が深いこの時期の修学院離宮も素敵だと思いました。(ツアーが出発しました。)

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「御幸(みゆき)門」は柿葺の屋根と花菱紋の透かし彫りが施してある板戸で、下離宮の入口です。

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この地には、後水尾上皇の第一皇女・梅宮が得度して、現在の中離宮付近に草庵を結んで円照寺を創建していましたが、上皇は円照寺を大和の八嶋に移して、上と下の「御茶屋」を建設しました。中門をくぐります。

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御茶屋とは上皇(天皇や将軍なども)が宿泊する施設(建物)のことで、離宮は御茶屋や庭園を含む敷地全体を指します。参観コースの横の緩やかな石段の上に「寿月観」の玄関「御輿寄」が見えます。

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上下のお茶屋が建設された後、中の御茶屋が造られ現在の姿となる歴史は後の記事で。下離宮には珍しい灯籠があります。中央の向こうにあるのは「袖形燈籠」。

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江戸時代の初め、徳川幕府は「公家衆法度」や「禁中並公家諸法度」をもとに、朝廷への統制を強めていました。紫衣事件や家光の乳母・春日局が無位無冠の身でありながら参内する「金杯事件」など朝廷の権威を失墜させる事件が続きました。

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耐えかねた後水尾天皇は幕府に通告なしに34歳で次女の興子内親王に譲位してしまいました。左は「朝鮮灯籠」。

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さらに、幕府が禁じていた院政を4代の天皇にわたり行いました。しかし、皇后の東福門院(徳川秀忠の娘和子)への配慮もあり、幕府は認めざるをえませんでした。

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しかし政治的な権限は取り上げられ、後水尾上皇は和歌、管弦、茶の湯、立花などに才能を発揮する一方で、並々ならぬ熱意を修学院離宮の造営に注ぎました。

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下離宮には、創建時では最大の建物の「彎曲閣」がありましたが、比較的早い時期に失われ、今は南を庭園に囲まれた寿月観が残っています。中央は「櫓形燈籠」。

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一の間に掛かる「寿月観」の扁額は後水尾上皇の宸筆です。下離宮は、上離宮への拠点でもあり、今はない彎曲閣とともに相当のもてなしのできる設備が備わっていたと思われます。建物は柿葺入母屋数寄屋風造りです。

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棚の戸袋には鶴の絵、下の地袋には岩と蘭の絵が描かれ、筆者はともに原在中です。原在中(1750 -1837)は江戸時代後期の絵師で、御所や大寺院の障壁画を制作、当時の京都画壇の中心的存在でした。

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一の間の襖四枚には岸駒により虎渓三笑の絵が描かれています。岸駒(1756-1839)は有栖川宮の庇護のもとに、天明の大火で焼失した御所の障壁画制作で活躍しました。

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右は「二の間」、左の「三の間」はお供の控えの間です。三の間の奥に五畳の間があり、その肘掛窓から覗く外景は四季を通じて美しいそうです。

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二の間の正面の杉戸には夕顔の絵が描かれ、光格上皇が仙洞御所から移したと伝えられています。筆者は不詳で、杉戸の内側はお水屋になっています。

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三の間の襖絵は泊舟、筆者は江戸時代後期の画家・岡本豊彦(1773-1845)です。与謝蕪村の俳諧的文芸や南画的作風と、円山応挙の写生画風を一緒にした親しみやすく情趣的な画風で、京都での名声は上記の岸駒に匹敵するほどでした。

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下離宮は、上離宮への拠点でもあり、今はない彎曲閣とともに相当のもてなしのできる設備が備わっていたと思われます。部屋の前に小さな滝があり、水が小川となって流れていきます。

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当時は御所から離宮まで輿に乗って2、3時間かかり、上皇もここで一休みして上の御茶屋に向かったそうです。先ほど通った池に小川の水が流れこみます。

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寿月観の前を通ってしばらく行くと、右手に東門が見えます。

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東門をくぐると一気に視界が開けます。この後、最後の写真の右の道を中離宮に向かいました。

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コメント

こんにちは。
一度は行きたいと思っていた
修学院離宮も、とうとう
行きそびれてしまいました。
若くて元気な時に方々へ
行っておくべきですね。
かなりあちこち行っているのですが。

投稿: ゆーしょー | 2024年7月 3日 (水) 13:24

晴れもいいけれど、梅雨の小雨もいいですね。
小雨の修学院離宮は、何となく詩的な雰囲気を感じます。

投稿: munixyu | 2024年7月 3日 (水) 18:55

ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2024年7月 4日 (木) 01:02

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