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2024年6月 3日 (月)

曼殊院道 一乗寺下り松から鷺森神社へ

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

一昨日は曼殊院方面に行ってきました。最初に先日の記事で登場した一乗寺下り松から出発します。下り松の前に先日の記事ではお休みで紹介できなかったお店があります。

「おゝみや児島詩仙堂店」 本店は西陣にある京漬物の直営通販ショップです。しそ巻ききゅうり、山椒ちりめん、長いもと桜の花の「花とろろ」、瓜の粕漬の「瓜の朝切り」、冬には千枚漬やすぐきがあります。

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下り松の交差点、正面が先日通った狸谷不動明王道、手前から左が曼殊院道です。

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「十輪地蔵尊」 由緒は不明ですが、地蔵菩薩は、釈迦入滅後、弥勒菩薩が出現されるまでの無仏の時代、私達衆生を済度する為に出現したと書かれている「地蔵十輪経」が名前の由来かも知れません。

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ところで、このあたりの地名「一乗寺」は、左京区の北東部に位置し、東は比叡山、南は田中、西は高野、北は修学院に囲まれた広い範囲を指します。

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その地名の由来となった「一乗寺址」の石碑 一乗寺は、平安中期から中世にかけここにあった延暦寺の末寺・園城寺(三井寺)の別院で、南北朝の動乱以後に廃絶しました。

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「修学院児童館」 学童クラブなどの地域の子供たちのクラブやイベントが行われます。全日本剣道道場連盟の下り松道場、剛柔流空手道天真会の下り松道場にもなっています。

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前に雲母(きらら)漬けの老舗「穂野出」があります。創業は元禄2年(1689)で、ここで曼殊院や延暦寺にお参りに来た人々や僧兵にお茶請けと漬物を振舞ったお茶屋が始まりです。

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雲母漬けは一口サイズの小なすを京都の白味噌で漬けたもので、歯触りがよく白味噌の香りが口に広がり、ちょっと病みつきになる漬け物です。門を入った母屋で商売をしています。

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ここは室町時代に『二水記』を著した公家の鷲尾家の家領で、江戸時代には雑掌(公家の事務職員)として鷲尾家に仕えていた田邊家の建物です。田邊家は鷲尾家の所領の管理を任され、納米の用務や家臣として宮中に出仕もしていたそうです。

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外には公家と比叡山僧兵のみのかさ、菊の御門の軒瓦などが展示され、主屋には幕末の洛中の騒擾・戦火を避けて、田邊家に託された鷲尾家の古文書などが保管されています。中でも江戸時代の請取覚は重要な書類です。

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徳川家光が上洛した際に市中に銀五千貫を下付、町民代表者が署名押印したものです。これによって当時の京中の家数が37,313戸であったことが分かるそうです。写真の石は遷都で東京に移った鷲尾家から下賜された庭石です。

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ここは比叡山へ登るきらら坂の道筋で、田邊家は鷲尾家に仕えながら番所を兼ねていたそうです。一方で、雲母漬けを製造販売するお茶屋の穂野出を開業しました。となりの建物には「雲母坂お茶所」という石碑があります。

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こちらが番所の建物だったようです。左に茄子の石像があります。建物の中には田邊家の資料や当主の銅像が置いてありました。現在では、お客との商談などに使われるそうです(中を見せて頂きました)。

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こちらには、お店の古い看板、塩小売業の許可や比叡山延暦寺御用達の掛札、雑誌などに載ったお店の資料や写真などがありました。正面は「京の冬の旅」に参加したときの市長と観光協会会長からの感謝状です。

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「雲母湯」 昔ながらの銭湯ですが、6人入れるサウナやジャグジー、本湯、電気風呂、塩風呂、水風呂、シャワーなどがあります。営業中でした。

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少し歩くと、右手(東)に見える小高い丘は「一乗寺城跡」です。元亀年間(1570-1573)に発生した織田信長と浅井長政、朝倉義景、比叡山延暦寺の戦い(滋賀の陣)の朝倉方の拠点の一つだと推定されています。

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比叡山系から西へ伸びる尾根上に位置して、その尾根上には、比叡山を東西に抜け、山城国と近江国を結んでいる白鳥越が通っています。城域は、中央の鞍部で南北に2分していると考えられます。下は京都府文化財保護課の資料からです。

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畝状竪堀の形態が、朝倉氏の本拠である一乗谷城跡と類似し、朝倉氏関連の城館に多く見られる外枡形状虎口があることなどから、文献史料は明確でないものの、朝倉氏の築城と考えられています。「志賀の陣」の様相を物語る重要な城跡だそうです。

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「宮内小輔城址」 宮内少輔・渡辺昌(生没年未詳)は戦国時代に一乗寺一帯に勢力を張った土豪の渡辺氏です。田中の渡辺に対して,北渡辺と称されたといいます。

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はじめ将軍足利義昭(1537-97)に仕えましたが、織田信長(1534-82)と義昭との対立に際して信長に属し、のち豊臣秀吉(1536-98)の馬廻となりました。ここは渡辺氏の城館跡で、門の左に石標があります(写真では見えていません)。

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「寺岡家」料理やお寿司のケータリング、仕出しの会社です。

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正面の道標には「右・葉山馬頭観音・ひえいざん無動寺道 左・赤山道」と刻んであります。今まで歩いて来た曼殊院道は赤山道ともいうようです。右の道にちょっとだけ立ち寄ります。

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「薬師堂」立派な建物ですが由緒は分かりません。左に「忠成公隠棲之地」の石碑があります。忠成は三条実万(1802-59)の諡号です。安政の条約勅許に反対しして島津斉彬(1809-58)らと一橋徳川慶喜(1837-1913)の擁立に尽力して、

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関白九条尚忠(1798-1871)と対立。安政の大獄で落飾謹慎に処せられ洛南上津屋村に隠棲したましたが、安政6年(1859)3月27日一乗寺村のこの地に移りました。石碑は実万の隠棲所跡を示しています。

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さらに歩くと、曼殊院道は右に曲がります。左の道(赤山道)を少し歩くと鷺森神社の参道入口があります(最後の写真)。

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コメント

雲母漬は、食べた記憶はありませんが、
ネットで検索してみたら、たぶん食べていると思います。
漬物屋さんにも、積んであったような気がします。

投稿: munixyu | 2024年6月 3日 (月) 17:01

こんばんは。ゆーしょーです。
京都の漬物は有名ですよね。
このお店には色んな京漬物
が売っているのですね。
千枚漬け・柴漬け・すぐき
など大好きです。
ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2024年6月 4日 (火) 00:57

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