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2024年6月 5日 (水)

曼殊院道から一燈寺(葉山観音)へ

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の鷺森神社を後に、鎮守の森を抜けて曼殊院道に戻りました。ここから曼殊院の方に向かいます。

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「うるしの常三郎 曼殊院道店」 うるしの常三郎は大正15年創業の漆器専門店で、こちらは京都にある直営5店舗の一つです。漆の食器や文房具、弁当箱・弁当用グッズなどを販売、ネットショップもあります。

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曼殊院道から詩仙堂や圓光寺の方に行く道に少し立ち寄ります。

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この道は東山三十六峰の一つ「一乗寺葉山」の中腹をまく道で、右(斜面の下)にはまだ田畑が残っています。

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「山本石材店 石俊」 創業100年の石材店で、和型墓石、洋型墓石、デザイン墓石、キリスト教墓石などの他に、石像や歌碑なども製造しています。希望があれば墓地や霊園の紹介もしてくれます。

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山の方に行く脇道に「葉山馬頭観音」という石標があります。

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一燈寺」は、江戸時代前期、後水尾上皇皇女の朱宮光子(あけのみやてるこ)内親王が観世音菩薩を信仰して、堂宇を整備したのが始まりです。葉山の中腹にあることから「葉山観音」と呼ばれてきました。臨済宗のお寺だそうです

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しかし、2013年の豪雨で境内に土砂崩れがあり、その後何回か訪れているのですが復興していませんでした。しばらく来ていないので気になって立ち寄りました。

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一燈寺は幕末の尊攘派志士・梅田雲浜(うんぴん)一家が一時期、堂守として住んでいたことでも知られています。藪の中に「梅田雲浜先生旧蹟」という石碑があります。

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石碑の横の坂を上ってしばらく行くと、左手の斜面に葉山観音へ上る石段があります。しかし、フェンスがあって近づくことができません。

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ブルーシートの上に見えているのが本堂にあたる観音堂です。

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「観音堂」には三面馬頭観世音菩薩を祀っていました。馬頭観音とは仏教の信仰対象の菩薩の一尊で、観音菩薩の変化身の一つ、六観音の一尊にも数えられています。観音としては珍しい忿怒の姿をしているのが特徴だそうです。

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光子内親王は後水尾天皇の第八皇女で、母は女官の櫛笥(くしげ)隆子です。通例では内親王になれず、比丘尼御所で生涯を終える身分でした。(下は17年前に訪れたときの観音堂です。)

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しかし、多くの兄弟姉妹中で幼い頃から聡明で、後水尾天皇より特別に寵愛され、中宮(当時は女院)徳川和子(東福門院)の養女となり、宣下を受けて内親王となりました。宣下とは、天皇の命令を公示することです。

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フェンスの近くに不動産登記に記載された土地の境界をしめす杭がありました。現在も登記上は一燈寺の所有地だと思われます。

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光子内親王には養母・東福門院の薦めで、四代将軍徳川家綱との縁談が持ち上がったこともありましたが、父の後水尾天皇の反対により縁談は成立しませんでした。その後、内親王に縁談はなく生涯を独身で過ごしました。

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後水尾上皇が修学院離宮を造営したときには、光子内親王は別殿を賜って楽只軒(らくしけん、音羽御所)と称しました。後水尾上皇が没すると内親王は出家して、自らの山荘を寺に改めて林丘寺としました。葉山観音から山沿いの道の奥に行きます。

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光子内親王は林丘寺宮とも呼ばれ、 葉山観音のお堂を建てたのもこの頃だと思われます。 「林丘寺宮墓地」には元遥内親王(光子内親王の法名)が祀られています。

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合せて、元秀女王、元敞(げんしょう)女王が葬られています。元秀女王は霊元天皇の皇女で光子内親王に師事して出家、林丘寺2世となりました。元敞女王は閑院宮直仁親王の王女で、10歳で桃園天皇の養子となり、2年後に林丘寺に入り得度しました。

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成長すると門跡を継いで林丘寺3世となりました。おそらく中央が光子内親王、左右の無縫塔(卵型の墓石)が元秀・元敞女王のものだ思われます。

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生母が亡くなると、光子内親王は寺を出ることはなく、経典の読謡や写経をして両親の菩提を弔いながら過ごしました。また、捨て子を引き取り養育したといわれています。(曼殊院道に戻ります。)

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1707年に皇女亀宮(後の元秀女王)が林丘寺に入ると、光子内親王は普門院と号して隠居し、1727年に94歳の高齢で亡くなりました。先ほどの場所に光子内親王が葬られたのは、葉山観音を深く信仰していたからだと思われます。

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光子内親王は和歌や書、絵画に優れた才能を持ち、特に絵画は狩野安信と狩野派を学んだ黄檗宗の卓峯道香に手ほどきを受け、多数の作品を残しています。下は泉涌寺所蔵の肖像画。

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林丘寺は修学院離宮内に現存し、林丘寺宮墓地は宮内庁の管理で常に整備されているようでした。一方、一燈寺は個人の所有なので何らかの事情で修復できないようです。何とか事態が好転することを願っています。

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曼殊院道に戻る途中で、五山送り火の船形や妙の字が見えました。もうすぐ曼殊院の参道です(最後の写真)。

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コメント

緑の感じや、日当たり、日陰の感じが
だんだん真夏めいてきましたね。
アスファルトの色も、そんな気がします。

投稿: munixyu | 2024年6月 5日 (水) 20:09

こんばんは。ゆーしょーです。
この付近へは誰も来ないのでしょうか。
人影が全然見えませんね。ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2024年6月 6日 (木) 01:08

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