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2024年6月12日 (水)

赤山禅院と千日回峰行

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の禅華院を出て赤山禅院を訪れました。寺院としては珍しく参道の入り口に鳥居があり、比叡山延暦寺の結界を意味しているそうです。「赤山大明神」の扁額は御水尾上皇から頂いた勅額(複製)です。

「赤山禅院」は比叡山延暦寺の別院で、天台宗修験道総本山管領所でもあります。山門の右に管領所の看板が掲げられています。

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「我邦尚歯会発祥之地」 平安時代、この地に大納言・南淵年名(みなふちのとしな)の「小野山荘」が営まれていました。晩年、南淵は時の賢人を招いて「尚歯会」を催しました。尚は尊ぶ、歯は年歯(年齢)という意味です。

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この尚歯会には七人の高齢の文人・世客が招かれ、池に船を浮かべて詩歌管弦の宴を催し「敬老会の発祥の地」ともいわれています。(参道には都七福神ののぼり。)

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南淵の没後10年余りたった仁和4年(888)に、第4世天台座主・安慧(あんね)が赤山禅院を創建しました。それは第3世天台座主・円仁(慈覚大師)の遺言でした。

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円仁は、838年に遣唐使船で唐に渡り天台教学を修め、その行程を守護した赤山大明神に感謝して赤山禅院を建立することを誓いました。円仁は帰国後天台密教の基礎を築きましたが、赤山禅院の建立は果たせませんでした。(珍しい倒立した狛犬)

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794 年に開かれた平安京は、もともと「青龍・白虎・朱雀・玄武」の「四神相応」で知られるように、方位を大切にして創られた都でした。平安時代、陰陽道が朝廷をはじめ民衆にまで広く信仰されるようになり、

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陰陽道では北と西は陰、東と南は陽とされます。その境目である東北と西南は陰陽が反転するところで、鬼が出入りする忌むべき方角とされ、東北は表鬼門、西南は裏鬼門と呼ばれます。(上の授与所の裏にいるワンちゃん)

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赤山禅院は平安京の東北にあり、赤山大明神は皇城の表鬼門の鎮守としてまつられました。 下の拝殿の屋根に瓦彫の神猿が安置されています。猿は比叡を守る日吉(ひえ)の神使で、赤山大明神の眷属(けんぞく、家来)でもあります。

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御幣(幣串)と神鈴を持ち、鬼門除けのため、京都御所の「猿が辻」の猿と向かい合っているといわれています。かつて夜な夜な悪さをしたため、逃げ出さないようにと金網に囲まれています。

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拝殿の横の「地蔵堂」には地蔵菩薩が祀られています。赤山大明神は地蔵菩薩の化身とされています。

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本尊の赤山大明神は、唐の赤山にある泰山府君を勧請したものです。泰山府君は、中国五岳(五名山)の中でも筆頭とされる東岳・泰山(とうがく・たいざん)の神で、日本では、陰陽道の祖神(おやがみ)になりました。「本殿」

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以来、皇室から信仰され、修学院離宮の造営で知られる後水尾天皇(1596-1680)が離宮へ行幸された際、社殿の修築と「赤山大明神」の勅額を賜っています。現在も方除けのお寺として、広く信仰を集めています。

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本殿の庇の下には懸仏(かけぼとけ) の種字の「カ」が刻印されています。本殿の左の広場に「十六羅漢」が置かれています。

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この広場の隅に七福神の一つ「弁財天」が祀られています。室町時代から民間に七福神信仰が始まり、赤山の弁財天は「出世弁財天」として信仰されました。ここから本殿の裏を回り、東に行きます。

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山の斜面の前に「福禄寿殿」があり、現代の都七福神のひとつ「福禄寿神」を祀っています。七福神の御朱印は右の社殿で受け付けていて、左には七福神像が置かれています。ここで、御朱印と福禄寿のおみくじを頂きました。

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ところで、赤山禅院は天台宗随一の荒行「千日回峰行(かいほうぎょう)」の「赤山苦行」の寺としても知られています。 (福禄寿殿の左の道の先に「稲荷社」があります。)

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千日回峰行は7年かかり、1~3年目は比叡山中を1日30キロ、毎年100日間歩きます。4、5年目は同じ行程を毎年200日歩きます。(福禄寿殿の右の石段を上った斜面にある「金(こん)神社」鬼門、方除の神で、家を護り家に金具を打つことを防ぐとされます。)

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合計700日の回峰を終えたあと、9日間の断食、断水、不眠、不臥の「堂入り」を行い、不動真言を唱えつづけます。(金神社の南にある 「歓喜天」、夫婦和合の神だそうです。)

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不動真言を唱える回数は10万といわれ、満行すると「阿闍梨」と称され、生身の不動明王になるとされます。6年目はこれまでの行程に「赤山苦行」として赤山禅院への往復が加わります。(さらに南に行くと「相生社」があり、縁結びの神です。)

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相生社の横に、最初に紹介した「小野山荘旧跡」の石碑があります。南淵年名は聡明で物事に明るく、政務に対して清廉をもって当ったとされす。清和天皇の信任が厚く、『貞観格』、『貞観交替式』や『日本文徳天皇実録』の編纂にあたりました。

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6年目は1日約60キロの行程を100日歩きます。7年目の前半の100日を「京都大廻り」といい、比叡山中のほか、赤山禅院から京都市内の全行程84キロを巡礼します。(「気学発祥地」園田真次郎は九星気学を創始しましたが、赤山禅院との関係は分かりません。)

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最後の100日間は比叡山山中を1日30キロ歩き、計1000日で満行となります。満行者は土足厳禁の京都御所に土足で参内し、加持祈祷を行うそうです。(池のほとりにある「御滝堂」は駒滝不動尊を祀ります。)

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赤山禅院では、千日回峰行を満行した「大阿闍梨」が住職をつとめ、「八千枚大護摩供」「ぜんそく封じ・へちま加持」「珠数供養」「泰山府君 五日講 ご縁日」など数々の加持・祈祷が行われます。五日講ご縁日は「五十払い」と関係があります。(御滝堂の境内社)

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かつて、申の日の五日に赤山禅院に詣でると吉運に恵まれ、「掛け寄せ(集金)の神」と評判になったそうです。その五日講ご縁日詣でから、関西で5日ごとに決済を行う「五十払い」の風習ができたといわれます。「消防ポンプ」

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ちなみに、千日回峰行者は2017年の釜堀浩元が平安時代から数えて 51人目(戦後14人目)、赤山禅院のご住職は1979年に満行して45人目(戦後8人目)です。「再起延命地蔵」

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「不動堂」 比叡山延暦寺と赤山禅院を結ぶ雲母(きらら)坂にあった雲母(うんも)寺の本堂と本尊・不動明王が遷されたものです。雲母寺は平安時代に千日回峰行の創始者・相応和尚が開いた寺院でしたが、明治に入って廃寺となりました。

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二千日回峰行者が3人いて、その最後が1987年の酒井雄哉(大津市の宝珠院住職)です。1934年には奥野玄順(第234世天台座主)が三千日回峰行者となりました。

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コメント

千日回峰行、これは地味で過酷な修行ですね。
7年間健康を維持するだけでも、かなり大変かもしれません。

投稿: munixyu | 2024年6月12日 (水) 16:36

千日回峰行、これは地味で過酷な修行ですね。
7年間健康を維持するだけでも、かなり大変かもしれません。

投稿: munixyu | 2024年6月12日 (水) 16:36

あ、二重投稿になってしまいました。すみません。

投稿: munixyu | 2024年6月12日 (水) 16:39

こんばんは。ゆーしょーです。
はるか昔の消防ポンプですね。
人力でポンプを押して消火する
のですね。
これと同じようなのが、和歌山の
古刹にも置いていました。
ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2024年6月13日 (木) 00:05

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