三井寺 中院の伽藍と伝説
過去の全記事 2006年1月27日から毎日更新しています。
昨日の記事に続いて、三井寺の伽藍を巡ります。題名の中院とは金堂周辺やこれから行く唐院のエリアを指すそうです。あわせて、三井寺にまつわる伝説のいくつかを紹介します。下は金堂の後ろにある「教待堂」です。
このお堂は教待和尚の御像を安置しています。 教待和尚は智証大師が入山するまで三井寺を護持していた不思議な老僧で、大師を迎えるとともに、石窟に入り姿を隠したといいます。
のちに智証大師はこの石窟上に一宇を建て廟としました。この石窟は今も教待堂の須弥壇の真下にあり、 昔から当寺の僧が出家の際に、その落髪を窟内に納める伝統が残っています。
この後、昨日の記事の閼伽井屋の横の石段を上り、下の境内図の上のエリアに入ります(歩いた経路を赤線で示しています)。
「霊鐘堂」 奈良時代の作とされる当寺初代の梵鐘を安置しています。 承平年間(10世紀前半)に田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したと伝えられています。
その後、山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると 「イノー・イノー」(関西弁で帰りたい)と響きました。弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って、鐘を谷底へ投げ捨ててしまったといいます。
鐘にはその時のものといわれる傷痕や破目などが残っています。また、この鐘は寺に変事があるときには、その前兆として不可思議な現象が生じたといいます。 良くないことがあるときには鐘が汗をかき、
撞いても鳴らず、 また良いことがあるときには自然に鳴るといいわれています。建武の争乱時には、略奪を恐れ鐘を地中にうめたところ、自ら鳴り響き、 これによって足利尊氏軍が勝利を得たといわれるなど、不思議な伝説が伝わっています。
「一切経蔵」 仏典類を網羅した一切経(大蔵経)を収める書庫。もとは山口の大内氏第26代当主・大内盛見の菩提寺の国清寺(現在の洞春寺)にあったものを、 慶長7年(1602)に毛利輝元によって移築されました。
「三重塔」 慶長6年(1601)徳川家康が寄進。もと奈良県吉野の比蘇寺(現在の世尊寺)の東塔で、豊臣秀吉が文禄3年(1594)に伏見城に移していたのを再び移建。軒深く三重の釣合もよく、相輪の水煙などに中世仏塔の風格を伝えています。
「唐院・潅頂堂」 入母屋造、檜皮葺、正面中央に軒唐破風を設ける上品で軽快な住宅風建築です。慶長年間に大師堂の拝殿として建立されたもので、内部は前後2室に分かれており、伝法潅頂などの密教儀礼が行われます。
「唐院・大師堂」 智証大師の御廟として唐院の中心的建物です。屋根は宝形造、檜皮葺の簡素なお堂ですが、堂内には秘仏の2躰の智証大師坐像(国宝、中尊大師・御骨大師)と黄不動尊立像(重文)が安置されています。
「唐院・長日護摩堂」 後水尾天皇の寄進によって寛文6年(1666)に建立されました。不動明王と2童子像をまつり、護摩壇では人々の所願成就を祈願する護摩法が修されます。
三重塔からここまでのエリアは唐院と呼ばれます。その名称は、清和天皇から下賜された御所の仁寿殿に智証大師が唐からもたらした経典・法具類を納めて、伝法潅頂の道場としたことに由来するそうです。四脚門から唐院を出ます。
「唐院・探題灯篭」 唐院へ向かう参道沿いには、歴代の探題によって奉納された石灯籠が立ち並びます。「探題」とは、天台座主を含む天台宗における最高法階だそうです。この参道を下ると昨日通った金堂正面の道です。
唐院の参道下から少し西にいくと山に向かう道(下の写真)があり、普賢堂が建っています。普賢堂は当寺が建立される以前から鎮座していた長等山の地主神・三尾明神(その本地仏)を祀っています。
三尾明神は智証大師の教法を守護すべく大師の入山を待ち望んでいたと伝えられています。現在では三尾明神は麓の三井寺の総門の横にある「三尾神社」に祀られています(下の写真)。
また、昨日の記事の「十八明神」にも伝説があります。白川上皇のとき、当寺の頼豪(らいごう)阿闍梨に皇子降誕を祈誓するよう勅命が下りました。 まもなく祈祷の効果があって皇子が誕生し、ほうびに当寺念願の戒壇道場建立の勅許を与えました。
ところが、比叡山の横暴な強訴により勅許が取り消されてしまい、これに怒った頼豪は21日間の護摩をたき壇上で果ててしまいました。その強念が八万四千のねずみとなって比叡山へ押し寄せ、堂塔や仏像経巻を喰い荒らしたと伝えられています。
この社は、この時のねずみの霊を祀っていて「ねずみの宮さん」と呼ばれます。『太平記』には頼豪が自ら石の体と鉄の爪を持った大きな鼠(鉄鼠)に化け、鼠の大軍を率いたと伝わっています。
昨日の記事の鐘楼の前に鉄鼠の絵が置いてありました。十八明神は比叡山への怒りを表すために北向きに建てられていましたが、この絵も北向きに置いてありました。今なお怒りが収まらないのかも知れません。
上は「籠手田安定頌徳碑」 明治35年3月に建立、17年におよび滋賀県令・知事を務めて滋賀県の発展に寄与した籠手田安定をたたえる顕彰碑だそうです。仁王門が見えてきました。
「食堂(釈迦堂)」 御所の清涼殿を移築したと伝えられ、多くの僧や衆徒を擁した三井寺では食堂(じきどう)として用いられたといいます。現在は、清涼寺式釈迦如来像を本尊として祀り釈迦堂と呼ばれています。
「弁財天社」 天和3年(1683)に建立され八臂の弁財天が祀られています。弁才天のそれぞれの手は鉾・剣・斧・鈷・輪・索・弓・矢を持ち、能弁、学問、技芸のご利益があるとされます。
「大門(仁王門)」三井寺の表門で、もとは天台宗の常楽寺(湖南市石部町)にあったのを豊臣秀吉が伏見城に移し、その後、慶長6年(1601)に徳川家康が三井寺に寄進しました。全国でも有数の美しい楼門として知られています。
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コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
1枚目の大門メチャ立派ですね。
仁王門というのですね。
4枚目の境内地図はありがたいです。
境内の伽藍の配置や歩いたコースが
よく分かりとても参考になりました。
ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2024年6月 2日 (日) 00:02