三井寺と紫式部
過去の全記事 2006年1月27日から毎日更新しています。
昨日の記事に続いて、三井寺の観音堂の石段の途中から下の境内図の赤線に沿って金堂まで歩きます。あわせて、大河ドラマで話題の紫式部と三井寺の関係を紹介します。
「十八明神社」十八明神は寺院の伽藍を守護する神で、智証大師が貞観17年(875)に創建したと伝えられます。現在の社殿は天保7年(1836)の再建。
「毘沙門堂」もと三井寺五別所のひとつ尾蔵寺の南勝坊境内に元和2年(1616)に建立。明治43年(1910)に南院の上三尾社近くに移され、昭和31年(1956)の解体修理に際して現在地に移築されました。
柳田暹暎の歌碑「限りなく刻へし如くたまゆらのことのごとしもいま定を出づ」柳田暹暎(せんえい、1917-)は国文学者で『円融 : 歌集 』、『序説日本の文学 』などの著書があるそうです。
三井寺は、紫式部にとって仏縁の深い寺でした。彼女の父親の為時は、晩年を迎えて三井寺で出家したことが伝えられています。親戚のなかにも三井寺の僧となった人がいます。ベンチ?
母親の兄弟だった康延は、宮中の仏事や天皇の安穏を祈る内供奉十禅師に任命されていました。「衆宝観音」
また、彼女の異母兄弟の定暹も寛弘2年(1005)ころに三井寺で密教の伝授を受け、阿遮梨となって一条天皇の生母・藤原詮子の追善法要や一条天皇の大葬の御前僧の一人として参列しています。「童地蔵」
寛弘5年(1008)藤原道長の長女で一条天皇の中宮彰子が、出産のため道長の邸宅に里下りしました。(観音堂の石段から北にいく道にはお地蔵さんや石仏が点在しています。)
そのときの出来事が『紫式部日記』に記されています。道長の邸宅の壮大な寝殿造りの庭園は秋の気配に包まれ、もののあわれを感じさせる雰囲気です。(右は「文化財収蔵庫」)
「弁慶力餅」名物の三井寺辨慶力餅・ほうじ茶付や、甘酒、冷やし甘酒もあります。「本家・力餅」と書いてあります。
邸内では安産を祈って忿怒の形相の五大明王が安置され、三井寺の勝算、心誉、斎祇といった有験の僧によって密教修法が行われており、護摩壇からは赤々と炎が燃え盛っています。「天台大師像」
祈祷に苦しむ物怪のののしる声が響き渡り、彼女も「いみじう、こはきなりけり」と記しています。自然の威力に対し神仏の救済を求めた当時の人々の祈りの深さが伝わってくる印象的な一節です。下は紫式部日記絵巻断簡。
「微妙寺」 三井寺五別所のひとつです。別所とは平安期以降、広く衆生を救済するため本境内の周辺に設けられた別院で、他に水観寺・近松寺・尾蔵寺・常在寺があり、総称して「三井寺五別所」といわれます。
微妙寺は正暦5年(994)に慶祚阿遮梨によって開基され、本境内の南方、現在の長等公園の山上にありましたが、昭和54年(1979)に現在地に移築されました。本尊として十一面観音菩薩と金色不動明王が祀られています。
「村霊橋」 三井寺(園城寺)を中興した智証大師が、この石橋を渡ろうとしたとき、大師が学んだ中国・長安の青竜寺が焼けているのを察知しました。さっそく真言を唱え閼伽水をまくと、橋の下から一条のムラ雲が湧き起り西に飛び去ったといわれます。
その後、青竜寺からは火災を鎮めてくれたことへの礼状が届いたといわれます。以来、この橋を村雲橋と呼ぶようになったそうです。(金堂が見えてきました。)
「園城寺天狗杉」金堂前には目通し周囲約4mに及ぶ杉の巨木がそびえています。修行僧が一夜のうちに天狗になって飛び去ったとの伝説から「天狗杉」と呼ばれています。
芭蕉の句碑「三井寺の門たたかばやけふの月」 奥の細道の長旅を終えた松尾芭蕉は、元禄2年(1689)12月からの2年間を大津で暮らしました。琵琶湖の船上で見た名月を、三井寺の門をたたいて修行僧に見せてやりたいという意味だそうです。
「金堂」(国宝)現在の金堂は、豊臣秀吉の正室北政所により慶長5年(1600)に再建。内部には円空仏や尊星王像をはじめ多くの仏像が安置されています。
「鐘楼(三井の晩鐘)」慶長7年(1602)に三井寺長吏・准三宮道澄によって梵鐘とともに建立されました。内部には近江八景の「三井晩鐘」で知られる巨大な梵鐘がつるされています。
この鐘は伝説の古鐘「弁慶の引摺り鐘」の跡継ぎとして豊臣家によって鋳造されたもので、古式を継承しつつも除夜の鐘の百八煩悩にちなんで百八個の「乳」を持つ新様式も取り入れた桃山時代を代表する梵鐘です。
「熊野権現社」 平治元年(1159)に白河天皇の皇子・行慶大僧正が、三井修験道の鎮神として勧請したのがはじまりです。現在の社殿は天保8年(1837)の再建です。
本堂の横に三井寺という寺号の由来となった「閼伽井屋」があります。閼伽井屋は仏に供える水や花を用意する施設のことです。建物の内部に石組に囲まれた井戸があります(最後の写真)。
飛鳥時代の天智・天武・持統の三天皇の産湯に用いられたことから「御井寺」すなわち「三井寺」の名が生れたとされます。このあと、右の石段を上って辨慶の鐘を見に行きました。
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コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
名物の三井寺辨慶力餅ですね。
和歌山にも「力餅」という店が
ありますが、とにかく人気で
昼過ぎまで売り切れてしまいます。
6枚目。ホントに変わったベンチですね。
でもベンチでしょうね。
紫式部のところ、気味が悪いです。
ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2024年6月 1日 (土) 00:15