仏陀寺と朱雀・村上天皇
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枝垂桜で知られる出町の妙満寺の北に仏陀寺があります。山門は閉じていますが、横の脇道から入ることができます(下の写真)。
「仏陀寺」は大蔵院と号する西山浄土宗の寺で、平安時代中期の朱雀・村上両天皇を開基として創建されました。最初に、この寺が二人の天皇によって開かれたちょっと複雑な事情を説明します。
寛明親王(後の朱雀天皇、923-952)は、醍醐天皇と藤原基経の娘・中宮藤原穏子との間に生まれ、926年3歳で東宮(皇太子)となりました。930年に醍醐天皇が崩御すると、8歳で即位しました。
政治は伯父の藤原忠平が摂関として取り仕切りました。在位中の935年平将門が関東で反乱を起こし、翌年には瀬戸内海で藤原純友が乱を起こしました(承平天慶の乱)。(本堂には本尊の阿弥陀如来坐像を安置しています。)
940年征東大将軍に任命された藤原忠文の征伐軍により将門は討たれ、翌年に藤原純友は橘遠保に討たれ、乱はようやく収束しました。以前に放映されたNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」では、平将門を加藤剛、藤原純友を緒形拳が演じました。
朱雀天皇は病弱のためか皇子女に恵まれまれず、944年弟の成明親王(後の村上天皇)を東宮として2年後に譲位しました。952年朱雀上皇は落飾、法名を仏陀寿と号して仁和寺に入りましたが同年24歳で崩御しました。
村上天皇(926-967)は兄の仙洞御所朱雀院を寺に改め、その法名にちなんで仏陀寺としたのがこの寺の始まりです。949年に関白の藤原忠平が死去すると、村上天皇はそれ以後摂関を置かず、天皇自ら政治を行いました。
承平天慶の乱(935–940年)の後で朝廷の財政が逼迫していたので倹約に努めました。 また、951年に『後撰和歌集』の編纂を下命、960年に内裏歌合を催行するなど、歌人、歌壇の庇護者として知られています。
また朝廷の儀式書『清涼記』を著し、琴や琵琶などの楽器にも精通し、平安文化を開花させた天皇といわれます。村上天皇の治世は「天暦の治」として後世に称賛されました。(境内のあちこちに花が咲いていました。)
この時代は、藤原良房(866-872年)以来続いた藤原氏の摂関政治の中で、天皇が主役となった特異な時代でした。村上天皇は右大臣・藤原師輔(もろすけ)長女・藤原安子(あんし)を皇后に迎えました。
藤原安子は藤原兼家の姉で、兼家はNHKの大河ドラマ「光る君へ」の主人公・道長の父親です。村上天皇の後を継いで即位した冷泉天皇ですが、奇行が目立ちわずか2年で退位、藤原実頼が摂政となり藤原氏の摂関政治が復活しました。
冷泉天皇のあとは弟の円融天皇が即位しました。その後しばらくは、冷泉・円融両天皇の皇統から交互に天皇が即位することになります。
仏陀寺は、応仁の乱(1467-1477)で焼失、後土御門天皇の帰依を受けて土御門西洞院(上京区)に中興されました。室町時代には、寺地は二条京極あるいは万里小路春日(柳馬場丸太町付近)にあったといわれ、天皇の勅願寺となりました。
その後、戦国武将の三好之長が仏陀寺に居住しましたが、同年放火されました。翌年から数年かけて融国正孝が発願して一条に再興したといわれます。
安土桃山時代の1591年、豊臣秀吉の御土居築造にともなって現在地に移されました。江戸時代には寛文の大火(1661)や天明の大火(1788)によって焼失、現在の堂宇はその後に再建されたものです。
山門横の地蔵堂に「王城地祭地蔵尊」が祀られています。寛文年間(1661-1673)に霊元天皇の命によって僧・宝山が洛外、六地蔵以外の四十八か寺の地蔵尊を選んだ「洛陽四十八願所」の第21番札所本尊です。
地蔵尊は蓮華座に結跏趺坐し、右手は膝上に置き掌を見せ、左手に宝珠を載せています。像の腹に下衣の結び目が下がって腹帯に見えることから王城鎮護に加えて安産守護の信仰もあるそうです。
霊元天皇の歌「すべらぎの花の都をまもらんと立つる誓いのいとも妙なる」が御詠歌としてかかっています。このあと、寺町通の寺を訪ねて北に歩きました。
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コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
ラッパ水仙メチャきれいですね。
日本水仙に比べると豪華です。
クリスマスローズは今が咲く
季節なのですね。
下向きに咲きますよね。
ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2024年5月 3日 (金) 00:08