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2024年5月13日 (月)

金福寺 芭蕉・蕪村と村山たか

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日、一乗寺の北山別院のあと金福寺を訪れました。「金福寺(こんぷくじ)」は山号を佛日山という臨済宗南禅寺派の寺院です。石段の上に山門があります。

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平安時代の864年、円仁(慈覚大師)の遺志を継ぎ、安恵(あんね)僧都が創建したとされ、当初は天台宗の寺でした。「芭蕉庵」の扁額が架けられた中門をくぐると左に本堂の「残照亭」があります。

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鎌倉時代から室町時代にかけて荒廃しましたが、江戸時代前期に圓光寺の鉄舟和尚により再興され、以後臨済宗南禅寺派に属しました。その際、金福寺は圓光寺の末寺になりました。(本堂から)

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鉄舟は松尾芭蕉と親交があり、貞亨年間(1684-1688)芭蕉が京都を訪れたとき金福寺にも宿泊しました。床の間の「蕪村筆 芭蕉翁像」、当寺のために蕪村が1779年に描いたもので、芭蕉の肖像画として最も優れているといわれています。

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芭蕉が泊まり、鉄舟と風雅を語り合った建物は「芭蕉庵」と呼ばれましたが、後に荒廃。江戸時代中期の1776年、俳人・画家の与謝蕪村は住持・松宗(しょうそう)の了承を得て、荒廃していた芭蕉庵を再建しました。

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蕪村は俳句の先師として芭蕉を尊敬していて、足跡をたどって東北地方を旅したほどでした。

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「松尾芭蕉」(1644-1694)は、伊賀国上野に生まれ、藤堂藩伊賀支城付の侍大将の家の料理人として仕えました。その若君・藤堂良忠と共に俳諧をたしなみ、北村季吟に学んで俳号を宗房としました。

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芭蕉は1680年に深川に草庵「芭蕉庵」を結んで隠棲生活に入りましたが、1682年に天和の大火(八百屋お七の火事)で焼失。

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46歳頃には京都を訪れ、金福寺裏の芭蕉庵、嵯峨の落柿舎、円山の芭蕉堂などを訪れました。その後、旅の途中の大坂御堂筋の花屋の裏座敷で亡くなりました。最後の句が「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」。

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「与謝蕪村」(1716-1784)は摂津国に生まれ、1737年に江戸に出て早野巴人(はじん)に師事し俳諧を学びました。1742年には憧れの松尾芭蕉の足跡をたどって、関東から東北地方を周りました。

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1754年には丹後与謝、讃岐などを旅して、1757年42歳の頃に京都の四条烏丸付近に住んで与謝を名乗りました。蕪村を中心に結社「三葉社」が生まれ、早野巴人が名乗っていた夜半亭を継ぎました。

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芭蕉庵ではしばしば句会を催しました。蕪村がここで詠んだ句「三度啼きて聞こえずなりぬ鹿の聲」、「畑うつやうごかぬ雲もなくなりぬ」。(芭蕉庵は茅葺き屋根、内部は千利休が造った待庵に似た三畳台目の茶室となっています。)

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蕪村は「奥の細道屏風図」や池野大雅との合作「十便十宜帳」を描き、江戸俳諧の中興の祖、俳画の創始者といわれています 。(芭蕉庵からは市内北部から愛宕山まで見えます。)

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芭蕉庵の横にある「芭蕉水」 鉄舟が芭蕉をもてなしたという井戸です。山の斜面ですが今でも水が湧いていました。

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井戸の横に「芭蕉の碑」があります。1776年に蕪村や俳人・樋口道立(どうりゅう)が建て、芭蕉を讃えた文が刻んであります。蕪村は碑の建立時に「我も死して 碑に辺(ほとり)せむ 枯尾花」と詠み遺言としました。

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芭蕉の碑の前に、芭蕉がここで詠んだ句碑があります。「うき我を淋しがらせよかんこどり」、「うき我」とはふさぎ込んでいる自分という意味です。

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蕪村は仏光寺通の自宅で亡くなり、遺言に従って弟子たちは斜面を上ったところに蕪村の墓を造りました。

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蕪村と門下・江森月居の墓 蕪村の辞世の句「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」、月居の句「朝霧にまぎれて出む君が門」、「敗軍の五六騎蓑をうちかづき」。周囲には他の門下や京都の俳人の墓や句碑があります。

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墓への道の途中に見晴らしのよい場所があります。1935年に高浜虚子は蕪村の墓を訪ね、このあたりで詠んだ句が「徂(ゆ)く春や京をひと目の墓どころ」。

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蕪村が金福寺で呼んだ春と夏の句、「畑打つや動かぬ雲もなくなりぬ」。畑打つは種まきのために耕すこと、「夏山や通ひなれにし若狭人」、若狭には「京は遠ても十八里」という言葉があります。

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蕪村の墓への坂道の途中に、村山たかの参り墓があります。「村山たか」は、1809年近江国にある寺の娘として生まれましたが、18歳の時に当時の藩主・井伊直亮の侍女となり、20歳になり京都に上って祇園で芸妓となりました。

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男子が生まれたのを機に、生まれ故郷の彦根に戻りました。

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そして彦根城下で部屋住みの井伊直弼と出会い愛人関係となり、その数年後に直弼を通じて出会った国学者の長野主膳とも深い関係になりました。やがて直弼は大老となり江戸に移り、1858年に安政の大獄で尊攘派を弾圧します。本堂に戻ってきました。

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長野は直弼の懐刀として恐れられ「京都大老」と呼ばれました。たかは京都にいる反幕府勢力の情報を江戸に送るスパイとなり、二人に協力しました。 下は「長野主膳像」。

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ところが、直弼は1860年の桜田門外の変で暗殺され、1862年長州と土佐藩士は報復のためにたかを捕らえ、三条大橋に尼姿で晒しました。一方、長野は彦根で斬首、たかの息子も粟田口で斬られました。『文久秘録』の「たか女晒し者の図」

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3日後、たかは宝鏡寺の尼僧に助けられ、清凉寺、圓光寺を経て、金福寺の尼となりました。たかは、晩年の14年間を金福寺で直弼と長野、息子の菩提を弔いながら過ごしました。 

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2011年東山区の井伊美術館で、直弼がたかへと宛てた手紙が発見されました。手紙は直弼が藩の反対でたかと会えなくなった際の辛い心情が綴られているそうです。山門の脇に慶応3年(1867)にたかが建てた弁天堂があります。

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コメント

芭蕉と蕪村。
数句見ただけでも、やっぱり凄い二人だなあと思います。
季語との距離感が絶妙ですね。

投稿: munixyu | 2024年5月13日 (月) 17:26

こんばんは。ゆーしょーです。
与謝蕪村は松尾芭蕉と双璧を成すと言われているほど
評価の高い江戸時代の俳人ですね。
そして蕪村の本業は画家ですね。
芭蕉の肖像画、メチャ上手に描いてますね。
ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2024年5月14日 (火) 00:05

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