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2024年5月21日 (火)

圓光寺 緑の境内をめぐる

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日の記事の八大神社を出て、近くにある圓光寺を訪れました。「圓光寺」は山号を瑞厳山(ずいがんざん)という臨済宗南禅寺派の寺院です。上は山門、下は「淡桜苑」、新しく造られた庭です。

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長6年(1601)に臨済宗の僧・三要元佶(さんようげんきつ)を開山に招いて伏見に圓光寺を創建し、学問所「伏見学校」としました。当時の徳川幕府の拠点は伏見にありました。

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「奔龍庭」は白砂を雲海に見立て、天空を自在に奔る龍を石組で表した平成の枯山水です。奥は宝物館の「瑞雲閣」で、貴重な寺宝を収蔵しています。

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伏見学校は僧俗問わず門戸が開かれ、家康は多数の書籍を寄贈、儒学者の藤原惺窩(せいか)、朱子学の林羅山らも講義を行いました。圓光寺の一角では、家康から贈られた木活字により多数の書籍が印刷・出版され「圓光寺版」といわれました。 

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開山の元佶は閑室(かんしつ)元佶とも呼ばれ、以心崇伝らとともに家康のブレーンとして寺社奉行などを務めました。上は「玄関」、下は 渡辺章雄による襖絵「四季草花図」。

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後に圓光寺は相国寺の境内に移りましたが、元和年間(1615-1623)に焼失、1623年に大名・細川忠利が再建しました。沢雲住持の時の1667年、幕命によって現在地の修学院村に移転し「洛陽学校」とも呼ばれました。「中門」

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中門を入ると水琴窟があります。縁が広い盃型の手水鉢を用いた水琴窟はあまり例が無く、古くから「圓光寺型」として多くの趣味人に愛されてきたそうです。いつも季節の草花が添えられています。

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「本堂」には本尊の千手観世音坐像を祀ります。ここから建物に上がり、右の書院に入ります。

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「十牛之庭」 仏道入門から悟りに至る十の道程を牛と牧童で表した「十牛図」を題材にした枯山水庭園です。牛は人間が生まれながらに持っている仏心を表し、牧童が逃げた牛を探す様を悟りにいたるまでの道程とみなします。 

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懸命に探し求めていた悟りは、自らの心の中にあったという物語だそうです。庭の東(左)に「臥牛石」が置かれ、そこから大小十の伏せ石が牛にたとえられて配置されています。

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書院の裏庭の向こうに、明治の元勲・岩倉具視公がつくった茶室「待月庵」があり、四季折々に茶会が開かれるそうです。中央に南禅寺の軒瓦が飾ってあります。

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圓光寺は明治維新後の廃仏毀釈で無住の寺になりました。明治39年(1906)尼僧の南嶺尼(なんれいに)が寺を整備して住持となり、全国で唯一の尼僧専門道場を開きました。現在は南禅寺派の研修道場になっています。

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句碑「日おもてに 空を透かせて 冬もみぢ」作者の岡部イサは圓光寺の近くに住み、70を過ぎてから俳句を始めて17,8年後の平成10年に亡くなりました。残された兄妹三人が菩提寺の圓光寺にこの句碑を建立しました。

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庭の奥にある池は瓢箪形をしていて「栖龍池(せいりゅうち)」と呼ばれます。この周囲の「昇龍の庭」は洛北で最も古い泉水だそうです。

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少し高いところにある「鐘楼」、その向うに蟠龍窟(ばんりゅうくつ) という建物があります。 

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「蟠龍窟」は坐禅堂で、毎週日曜日6:00~8:00に「日曜早朝坐禅会」が開かれます。内容は、暁天坐禅、作務、法話、粥坐(朝食)だそうです。修学旅行や団体での坐禅体験も行われます。

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坐禅堂の前に童子像が置かれています。寝そべっている像は、仏道入門から悟りに至る十の道程のどれにも当てはまりそうにないので、仏道を志す以前の姿ではないかと思います。

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さらに石段を上ると墓地があり、墓地の片隅に新しくペットの墓が造られていました。

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墓地には、広島原爆で被曝し、京都で亡くなったマレーシア人留学生サイド・オマール氏の墓や、先日の金福寺の記事で紹介した村山たか女の墓があります。ここからさらに石段を上ります。

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石段の上には家康の墓があり、歯が埋葬されています。

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最近再興された「東照宮」、徳川家康(東照大権現)が祀られています。江戸時代の「遺拾都名所図會」にはここに白木造りの荘厳な東照宮があり、名跡として「雨月物語」の作者上田秋成もお参りしたといわれます。

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さらに山道を行くと見晴らし台があり、市内の北部が見渡せます。手前の屋根は圓光寺の建物、向うは西山、右には送り火の船形や「妙法」の法の字も見えます(下の写真には入っていませんが)。

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墓地から下りる道の上に歌碑があります。「坂道を のぼり来りて 月読みの 光あまねき 打たれ佇つかも」、作者の国崎望久太郎(1910-1989)は歌人で国文学者、立命館大学の教授や図書館長などを務めました。

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帰りは竹林の道を通ります。 ここは、十牛の庭の奥の孟宗竹林で、かって円山応挙がよく訪れて「応挙竹林」と名付けられています。

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ところで、宝物館の「瑞雲閣」には、家康が寄進した活字(伏見・圓光寺版)の5万個が保管され、日本最古の木活字として重要文化財に指定されています。下は圓光寺のHPからの転載です。

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さらに、瑞雲閣には安土桃山時代の絹本著色「元佶和尚像」(重文)、円山応挙筆の紙本墨画「雨竹風竹林図屏風」などもあります(最後の写真)。

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コメント

関ヶ原の戦いは、裏切りの怖さですよね。
あと、平地の家康の強さ。
あれが山地だったら、どうだったのでしょう。
いろんな展開があったかもしれません。

投稿: munixyu | 2024年5月21日 (火) 14:42

こんばんは。ゆーしょーです。
圓光寺は臨済宗南禅寺派の寺院なのですね。
和歌山県には臨済宗南禅寺派の寺院は見かけないです。
一方、臨済宗妙心寺派の寺は何か所かあります。
和歌山県の南の方に多くあるようです。
ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2024年5月22日 (水) 00:14

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