詩仙堂と石川丈山
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一昨日の記事の金福寺を出て、少し北にある詩仙堂に来ました。「詩仙堂」は山号を六六山、正式名称を丈山寺という曹洞宗の寺院で、永平寺の直末寺です。上の「小有洞」という山門には石川丈山筆の扁額が掲げられています。
詩仙堂は寛永18年(1641)に丈山が隠棲のため建立した山荘です。以下では、新緑の境内をみながら丈山の生涯を振り返ります。
「石川丈山」(1583-1672)は、三河国泉郷(現安城市和泉町)の代々徳川家(松平家)に仕える譜代武士の家に生まれました。父は石川信定、祖先は源義家の第六子・義時と伝えられています。「中門」
秀吉が天下統一した頃、丈山は官に仕えようとしましたが父が許さず、13歳の時ひそかに家を出て忍城(埼玉県)にいた祖父の弟・石川遠江守信光に身を寄せます。慶長3年(1598)16歳の時に父が死去してしまいます。 (拝観受付の庫裏です。)
親戚の松平正綱が丈山の境遇に同情して家康に話したところ、家康は代々武勲の家柄なので遺族は厚く庇護したいと、丈山を召出して近習としました。 本尊の馬郎婦観音(めろうふかんのん)は 所願成就・学業成就にご利益があります。
慶長5年、18歳の丈山は関ヶ原の戦いで戦功をあげ、家康は武勇とその忠勤を愛でて寝所の側に仕えさせたといいます。「本堂」の一階から前庭。
慶長12年落成した駿府城が炎上し、当時5歳の徳川頼房(家康の第11子、のちの水戸藩主)と乳母が取り残されました。これをみた丈山は、衣に水をかけて火の中から2人を救出しました。
慶長20年(1615)の大坂夏の陣では、長年参禅した駿河清見寺の説心和尚に武勲を誓い出陣しますが、腸チフスにかかり生死をさまよってしまいます。そこに、母から「特別の戦功を立てなければ母は再びお前に会わない」との激励の手紙を受け取ります。
丈山は母の手紙を受け取って奮戦するも、軍令に反して抜け駆けの先登(一番乗り)をしたことを咎められ、蟄居を申し付けられました。 丈山が寵臣だったので家康は一層厳しく戒めたといわれています。
叔父の本多正信は何とかとりなそうとしましたが、丈山は浪人となって上洛、髪を切って妙心寺に隠退してしまいました。 翌年、母の病を聞いて江戸に行き、看病をしながら文筆活動に励みます。本堂は3階建て、3階には「嘯月楼(しょうげつろう)」があります。
「鹿(しし)おどし」 添水あるいは僧都ともよばれます。農民が猪や雀をおどすために考えたもので、この地が山麓にあるので、鹿や猪が庭を荒らすのを防ぐために設けられたそうです。庭の趣向として、丈山が初めて用いたともいわれています。
元和3年(1617)、知人の林羅山の勧めによって藤原惺窩に師事し儒学(朱子学)を学びました。この頃になると、丈山は文武にすぐれるとの評判がたち水戸・紀伊家をはじめ、各所から仕官の誘いを受けます。
隠退して風雅の道に親しんだ丈山は当初はきき入れませんでした。しかし、老母のことが気がかりで、本多出羽守のすすめもあり、紀伊和歌山藩藩主の浅野長晟(ながあきら)に仕えました(36歳)。
ところが、和歌山藩に仕えて数ヵ月すると仕官にあきたらず、壁に「白鴎(區鳥)は野水に停まらず」と書いて、京都へ帰ってしまいます。京都へ帰った丈山は、また自適の生活を送りました。(池の周囲に様々な花がさいていました。)
紀伊の和歌山藩を去って5年後、板倉重昌が丈山の窮乏を憂い、紀伊から広島に転封された浅野長晟に頼んで、丈山に再び仕えるようにすすめます。
客人待遇で千石を給するとのことで、丈山は老母に孝養のために再び浅野長晟に仕えることにしました(41歳)。丈山の広島在住は前後14年間に及び、その間しばしば京都に出向き、老母を名勝地に案内したそうです。
丈山53歳の時に母が亡くなり、広島藩に引退を願い出ますが藩主の浅野長晟はなかなか許しません。年が明け、とうとう病気療養のため有馬温泉に行くと称して、広島を去ってしまいました。茶室「残月軒」
京都に戻った丈山は相国寺の近くに睡竹堂(すいちくどう)を造り住みます。寛永15年(1638)京都所司代板倉重宗が幕府に仕えるようにすすめるも謝絶。丈山は重宗と同郷の旧知の間柄で、しばしば重宗を訪ねています。
そして、終の棲家に適する地を探し、59歳になってようやく洛北の一乗寺村に詩仙堂を建てたのです。山際のでこぼこした土地なので凹凸窠(おうとつか)とも呼ばれました。
その建設費は、丈山が愛蔵する書籍を売り衣食を節して捻出したもの、あるいは、浅野長晟が「丈山は有馬に入湯したついで京都に帰ったもので、正式に辞職したものではない」として、4年間の俸禄四千石を給付したからであるともいいます。
丈山は敬愛する中国歴代の詩人36人を選んで三十六詩仙とし、狩野探幽に肖像を描かせて堂内に掲げました。このことから凹凸窠は詩仙堂の名で知られるようになりました。
丈山はこの詩仙堂で学問に没頭し、隷書、漢詩の大家としても知られるようになります。幕末の『煎茶綺言』には、「煎茶家系譜」の初代に石川丈山が記載され、煎茶(文人茶)の祖ともいわれます。(窪地の斜面には歌碑や石仏があります。)
また、作庭の才能にも恵まれて東本願寺・渉成園や一休寺など、丈山作庭といわれる名園があります。この頃、後水尾上皇からお召しがありましたが「渡らじな瀬見の小川の浅くとも老の波たつ影は恥かし」と詠んで断りました。
上皇はその意思を理解して歌の「老の波たつ」(老人なので)を「老の波そう」(老人に付き添っているので)と手直しして返したといいます。丈山は詩仙堂で30年余りを過ごし、寛文12年 (1672) 90歳でその生涯を閉じました。生涯独身でした。
ところで、丈山が鷹が峰の本阿弥光悦、八幡の松花堂昭乗とともに、江戸幕府の意を受けて朝廷や公家の監視をする隠密だったという説があります。真偽は不明ですが、多才で様々な分野で足跡を残す一方で私生活は謎の多い人物だったようです。
また、晩年は訪れる人が多く、丈山は故郷の三河に戻りたいと幕府に申し出るも、板倉重宗が許しませんでした。憤慨した丈山が先ほどの後水尾上皇が手直した歌を送ったといわれます。「方明峰閣」(坐禅堂)
「瀬見の小川に夕涼みにも出かけられない」という嫌味でした。後世、与謝蕪村はこの歌に対して「丈山の口が過ぎたり夕すずみ」と詠みました。
自由奔放で我儘(わがまま)ともいえる石川丈山でしたが、皆から愛された人物だったのも事実です。
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コメント
石川丈山は、じっとしていられない人だったのですね。
でも、多才でいろんな人に呼ばれる。
詩仙堂で30年余りを過ごしたことが、逆に不思議なのかもしれません。
投稿: munixyu | 2024年5月15日 (水) 14:38
こんばんは。ゆーしょーです。
詩仙堂へは40~50年もの昔
一度行ったことがありますが、
そのほとんどは忘れてしまいました。
アヤメでしょうか菖蒲でしょうか
きれいに咲いてますね。
投稿: ゆーしょー | 2024年5月15日 (水) 23:11
ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2024年5月16日 (木) 00:06