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2024年5月14日 (火)

天寧寺 有形文化財の建物と明智光秀

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

一昨日の記事の西園寺の北隣に天寧寺(てんねいじ)があります。「天寧寺」は山号を萬松山(ばんしょうざん)という曹洞宗の寺院です。すぐ北に鞍馬口通があり、寺町通の北端です。

かって、この地は比叡山延暦寺の末寺・松陰坊があった場所で、松陰坊は延暦寺への参拝前に宿泊するような施設だったそうです。山門横に「松陰坊遺跡」の石標があります。

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「表門」は安政四年(1857)建築の藥医門で構造や意匠に禅宗様式の要素が見られ、京都市の有形文化財に指定されています。比叡山を望む額縁門でもあります。

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戦国時代の元亀2年(1571)信長の比叡山焼き討ちの際に、松陰坊も廃絶されました。山門を入った左に「観音堂」があります。

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観音堂には後水尾天皇の念持仏・聖観音像(中央)と東福門院の念持仏・薬師如来像(右奥)などを安置しています。

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一方、天寧寺は南北朝時代(室町時代前期)傑堂能勝(けつどう-のうしょう)和尚が会津城下に創建しました。伊達政宗が会津に攻め入ったことから、安土桃山時代の天正年間(1573-1592)に現在地(松陰坊跡地)に移転しました。

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寺伝によると、京都に移された天寧寺の復興には直江兼続や京都所司代の板倉勝重らが援助したと伝わっています。山門を入った右には鎮守の「稲荷大神宮」があり、「稲荷大神」(まんじいなり)を祀っています。

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江戸時代の天明8年(1788)に起こった「天明の大火」は京都で最大規模の火災で、御所も炎上、後桜町上皇は青蓮院に避難したほどです。その時、天寧寺も焼失してしまいました。歴代住職の墓

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文化9年(1812)に本堂、天保13年(1842)に書院、嘉永2年(1849)に山門が再建され、本堂、書院、表門(山門)は平成14年京都市指定有形文化財に指定されました。 「諫鼓鶏(かんこどり)の燈籠」

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平成10年から始まった修復工事で、本堂の天井裏から古い仏像が発見されました。仏師が調査した結果、天寧寺が京都に移転した当時の本尊であることが分かりました。「本堂」現在の本尊・釈迦如来像(仏師・春日作)が安置されています。

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かっての本尊であることを示す願文が台座に書かれており、山城守(直江兼続)が力を貸して復興されたことも記されていました。つまり、上述の寺伝の一部が事実だったことが証明されました。中門(上の写真)の「飾り窓」

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飾り窓には「菊水」の紋が彫られています。 中門の左の「カヤの木」の頂部には落雷の跡、幹には天明の大火の焼痕があり、歴史を伝える大樹として京都市登録天然記念物に指定されています。

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天寧寺の開基・傑堂能勝は武将・楠木正成の息子だとされます。あちこちにみられる「菊水」は正成の家紋が引き継がれていると考えられます。鐘楼の屋根の「獅子口」(鬼瓦の位置にある駒形の瓦)にも「菊水」が見られます。

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境内の一番奥に墓地があり、江戸時代の茶人・金森宗和、かっての住職・善吉(ぜんきつ)和尚、儒者・寺島俊則、神楽を家業とする公家・慈野井家などの墓があります。「墓地への門」ここからは入れません。

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金森宗和は、高山藩の武将の家に生まれましたが、廃嫡となり宇治に移って茶の湯に専念しました。古田重然や小堀政一の影響を受けながら、後水尾院をはじめ公家との交流のなかで「姫宗和」と呼ばれる優美な茶風を築きあげました。

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善吉和尚は剣術の示現流の開祖で、その流儀は遠く薩摩に伝えられました。薩摩では勇猛な武将が生まれ、時代を経て倒幕の原動力の一つになったともいわれています。左は書院、右は「庫裏」。

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ところで、前述の修復工事で本堂の天井裏から驚くべきものが発見されました。それは明智光秀の位牌で、光秀の死後数百年経た江戸時代に作られたものだったそうです。「書院」の玄関

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「光秀は謀反人」という世評もあり、かっての住職が本尊の上の天井裏に隠し、大事に供養していたと想像されます。理由にまだ定説はありませんが、寺では天寧寺の京への移転に尽力した恩に報いるためと考えているそうです。

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もう一つの有力な説は、位牌は天寧寺ではなくかっての松陰坊にゆかりがあり、松陰坊が廃絶して寺が変わっても数百年の間、密かに光秀の位牌を供養し続けてきたという説です。境内には松陰坊の遺物もあります。「わらべ地蔵」

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光秀は信長の命で比叡山の焼き打ちを主導し、寺社勢力に対して強硬派だったという文書もあります。一方、最近の発掘調査では比叡山に大規模な火災跡や遺骨が見つからず、焼かれたのは一部の建物だけだったとみられています。

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発掘結果は、光秀と延暦寺の間にはある種の「密約」があったという説を補強しています。江戸時代を通じて大っぴらに光秀の位牌や慰霊を祀ってきた寺社は多数あります。しかし、天寧寺が天井裏に置いて供養したのは、

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光秀に感謝していることを決して外部に知られてはならない延暦寺の末寺だったからというわけです。上の写真は「明智光秀報恩塔」近年名づけられたものです。このあと、寺町通の北端の寺に向かいました。

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コメント

光秀の位牌は、よく見つからずに残っていましたよね。
信長の時代に見つかってたら、大変なことになっていたと思います。
残るものは、残るもんなんですね。

投稿: munixyu | 2024年5月14日 (火) 16:34

こんばんは。ゆーしょーです。
昨日は歩き過ぎて疲れたので
応援だけで失礼します。ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2024年5月15日 (水) 00:05

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