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2024年5月29日 (水)

石山寺と平安文学

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事に続いて、石山寺の本堂に上がりました。「本堂」は滋賀県最古の木造建築物とされ、承暦2年(1078)の大火で焼失しましたが、内陣(正堂)は永長元年(1096)に再建。外陣(礼堂)は慶長7年 (1602) 淀殿の寄進により増築されました。

本堂内陣の宮殿(くうでん)に安置されている本尊は、丈六・二臂の如意輪観世音菩薩で、安産・福徳・縁結・厄除のご利益があるとして信仰を集めています。(内部では撮影できません。)

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平安時代には、貴族たちによる石山詣が盛んになりました。当時の人々は京の都から逢坂の関を越え、打出浜からは船に乗って石山寺まで来ました。それからお堂に籠って、夜通し祈願したそうです。

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「源氏の間」 紫式部が参籠し『源氏物語』を起筆した場所と伝えられています。『石山寺縁起絵巻』には、この部屋が天皇、貴族、高僧の参拝や参籠に使用されている様子が描かれています。

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下は境内図で、中央からすこし左上にある本堂から山の上に上っていきます。

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「三十八所権現社」(重文)天智天皇までの歴代天皇を祀る石山寺の鎮守社です。一間社流造、檜皮葺で、本堂の東側の硅灰石の上に建っています。慶長年間(1596-1614)の伽藍復興時に本堂の礼堂とともに建立されました

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紫式部は石山寺に七日間の参籠をしていました。そのとき、琵琶湖の湖面に映える十五夜の名月に源氏物語の着想を得て、「今宵は十五夜なりけり」と書き出したといわれます。

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「経蔵」(重文) 経典を収めるための高床の校倉で、県下で最古の校倉造の建造物です。本堂の北東の一段高い場所に立っています。かつては、重要文化財「石山寺一切経」「校倉聖教」など重要な経典類が収められていました。

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「安産の腰掛石」 高床式に建てられた経蔵の束(つか)の一部は、露出した硅灰石の岩盤に直接立てられていますが、その束を抱くように岩盤に座ると安産になると伝えられています。

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『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母は、京の都から徒歩で石山寺に参詣したとされています。左は「紫式部供養塔」、右は芭蕉の句碑「曙はまだむらさきにほととぎす」。

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藤原道綱母は明け方に出発し、歩いて逢坂の関を越えて打出浜から船に乗り、石山寺に到着したのは夕方だったそうです。『更級日記』の作者菅原孝標女も石山寺に参籠したことが『石山寺縁起絵巻』に残されています。「多宝塔」

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「多宝塔」(国宝)源頼朝に寄進により建立されたと伝わり、日本最古で最美の多宝塔として知られています。本尊は金剛界の大日如来像で、四天柱には金剛界の諸尊と五大尊が描かれており、どちらも重要文化財に指定されています。

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「めかくし石(石造宝塔)」多宝塔の西側に立つ、鎌倉時代の作といわれる石造宝塔は、目隠しをして塔身を抱きとめることができれば願い事がかなうと伝わり、現在も若者に人気のスポットだそうです。

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平安時代の承暦2年(1078)石山寺の本堂が雷災のため半焼、永長元年(1096)再建されました。「源頼朝・亀谷禅尼供養塔」 亀谷禅尼は源頼朝の第二の姫の乳母で、剃髪後石山寺に住し頼朝に石山寺の再興を勧めて多くの寺領を手配しました。

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源頼朝は多くの建物を寄進しました。国宝の多宝塔以外に、東大門や鐘楼も頼朝の寄進と伝わります。下は天照大神を祀る「若宮」、立札によると、寺僧によって壬申の乱で亡くなった大友皇子をここで密かに供養してきたそうです。

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『源氏物語』は続く時代の人々の文学や芸術に大きな影響を与えました。元禄年間(1688-1704)幻住庵に滞在していた松尾芭蕉はたびたび石山寺に訪れ、この地に滞在したと伝えられています。「芭蕉庵」平屋建ての新しい茶室です。

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芭蕉は、ここで多くの句を残しています。「石山の 石にたばしる あられかな」、「あけぼのは まだむらさきに ほととぎす」。瀬田川周辺には、墓地のある義仲寺の無名庵、長期滞在した幻住庵、岩間寺などが点在します。

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「月見亭」 平安後期の保元年間(1156-1158)後白河上皇の行幸に際して建てられたといわれ、はるかに琵琶湖を望みながら瀬田川の美しい風景を楽しむことができます。「近江八景 石山の秋月」に描かれ、毎年中秋の名月の日に「秋月祭」が行われます。

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「心経堂」花山法皇西国三十三所復興一千年記念行事の一環として、平成2年(1990)に建立され、如意輪観世音菩薩と石山寺に奉納された写経を納める輪蔵が安置されています。

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「豊浄殿」 毎年、春と秋に「石山寺と紫式部展」を開催しています。石山寺の宝物と、紫式部や『源氏物語』を題材とした美術品などを展示しています(有料)。この辺りが山の一番高い場所です。

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室町時代の建武5年(1338)には足利尊氏が天下泰平を祈願して大般若経千部の読経を頼み、暦応4年(1341)には尊氏みずから参詣して、祈願成就のための刀一振を奉納しました。ぼたん園と光堂

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「光堂」 平成20年(2008)石山を発祥の地とする東レ株式会社によって寄進された堂宇です。鎌倉時代に存在したという「光堂」を復興したもので、本堂と同じ懸造りで、阿弥陀如来を本尊としています。

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「紫式部像」 石山寺参籠の折に『源氏物語』の着想を得たといわれる紫式部の銅像です。光堂からの下り道の途中の、境内の奥に広がる源氏苑の一角にあります。

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安土桃山時代には、足利義昭が織田信長と争い、石山寺を陣地としたので多くの堂宇が兵火に遭いました。さらに、織田信長によって寺領五千石も没収されましたが、天下統一をした豊臣秀吉によって没収された寺領が回復されました。

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近代になると、与謝野晶子・谷崎潤一郎・島崎藤村・円地文子・三島由紀夫なども石山や紫式部を主材にして作品を書いています。下は「無憂園」、西国三十三所観音(石仏)や「霊仙三蔵碑」があります。

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「天智天皇の石切場」 天然記念物の硅灰石が道沿いに露出しており、15か所の採石痕があります。近年、ここから切り出された石が、天智天皇の時代に飛鳥の川原寺中金堂の礎石に使用されていることが明らかとなりました。

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本堂の石段下にある千年杉の「ご神木」まで下りてきました。この後、再び京阪電車に乗って三井寺に向かいました。最後は東大門です。

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コメント

こんにちは。ゆーしょーです。
紫式部の間だけは今も記憶に残っています。
というのも思ったより狭かったからです。
もっと広い部屋かと思ってました。
石山寺もみどりが多いですね。

投稿: ゆーしょー | 2024年5月29日 (水) 14:35

ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2024年5月30日 (木) 01:52

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