蝉丸神社と逢坂関
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昨日は京阪電車で滋賀県大津の石山寺と三井寺に行ってきました。その途中の大谷駅で降りて旧東海道沿いにある「蝉丸神社」と「逢坂関」に立ち寄りました。
蝉丸神社の石段下の「車石」 大津と京都を結ぶ東海道は、米をはじめ多くの物資を運び、江戸時代中期の安永8年(1778)には牛車だけでも年間15,894輌が通行しました。重い荷物を引いて、雨の日などは大変な苦労だったそうです。
京都の心学者・脇坂義堂は、文化2年(1805)に一万両の工費を出して、大津八町筋から京都三条大橋にかけての約12kmの間に車の轍(わだち)を刻んだ花崗岩の切石を敷き並べ、牛車専用通路として通行に役立てました。
「蝉丸神社」は、平安中期の天慶9年(946)蝉丸を主祭神として祀った神社で、街道沿いの石段の上にあります。(急な石段を上ったところに神輿庫があります。)
蝉丸は盲目の琵琶法師として知られ、平安時代の天禄2年(971)には円融天皇から綸旨(りんじ、勅旨を文書にしたもの)が下され、以後歌舞音曲の祖神として芸能に携わる人々に崇敬されてきました。(舞殿)
当時芸能の興業をするには、蝉丸神社の免許が必要とされたといいいます。蝉丸はこのあたりに住んでいて、峠を行きかう人々を思い浮かべて詠んだのが百人一首の「これやこの ゆくもかえるもわかれては 知るも知らぬも 逢坂の関」です。
上の歌には「ゆきかふ人を見て」という詞書きがありますが、盲目の蝉丸がどうやって「ゆきかふ人を見」たのかは定かではありません。実際に目が見えなかったのではなく、世間に対して心を閉ざしていたのを比喩的に表現したものだという説もあります。
蝉丸は『今昔物語集』では式部卿の宮の雑色、『和歌色葉』では盲目の道心者、『平家物語』の「海道下り」では醍醐天皇の第四皇子とされています。逢坂関の周辺には蝉丸を奉った関蝉丸神社もあることから、関所の守神だと考えられています。
江戸時代前期の万治3年(1660)に現在の社殿が建立され その際に猿田彦命(さるたひこのみこと)と豊玉姫命(とよたまひめ)が合祀されました。
隣にある摂社「皇大(こうたい)神宮社」 天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀ります。
蝉丸神社を出て、旧街道を上ったところにある逢坂関に向かいます。
「逢坂関」(おうさかのせき)は、山城国と近江国の国境となっていた関所で、相坂関や合坂関、会坂関などとも書きます。(向うの峠の上にあります。)
飛鳥時代の大化2年(646年)に初めて関所が置かれた後、延暦14年(795)には一旦廃絶されました。その後、京都に都が移されると、東海道と東山道(後の中山道)の2本が逢坂関を越えるため、交通の要となりました。
斉衡4年(857)に同じ近江国の大石および龍花とともに再び関所が設置されました。寛平7年(895)の太政官符では「五位以上及孫王」が畿内を出ることを禁じ、この関所を畿内(山城国)の東端と定めています。
逢坂関はやがて旅人の休憩所としての役割も果すようになり、藤原道綱母の『蜻蛉日記』には天禄元年(970)に逢坂越を通った際に休息したことが書かれています。
向うの大きな看板に『石山寺縁起絵巻』の一部で更級日記の作者菅原孝標女(たかすえのむすめ)が逢坂関を通過する場面が描かれています。その後の鎌倉時代以降も逢坂関は京都の東の要衝として機能してきました。
南北朝時代以降には園城寺(三井寺)が支配して関銭が徴収されるようになりました。しかし、貞治6年(1367)に園城寺の衆徒が南禅寺所轄の関を破却したため、仕返しに侍所頭人の今川貞世によって逢坂関は焼払われました。
その後、逢坂関は再設されましたが、戦国時代の寛正元年(1460)に、大谷・逢坂の両関が一時廃されました。経済上の理由から室町幕府が園城寺の関所を支配下に置こうとしたためだと考えられています。
その後も逢坂関は存在して、応永25年(1418年)に足利義持が伊勢神宮に参詣した際に通過したとの記録があります。下は「逢坂関址」の碑、このあたりは「逢坂の関記念公園」というそうです。
昭和初期には旧東海道とほぼ同じルートをとおる国道1号線(左)が開通して、逢坂関で旧東海道を交わります。
逢坂関は平安京の東の出入口にあたる場所で、都を離れる人々を送別する場所として様々な和歌に詠まれ、近江の代表的な歌枕となりました。(看板のこちら側には大河ドラマに関連したイベントや三井寺・石山寺の案内がありました。)
百人一首でも三つの歌に登場します。蝉丸(左)以外は三条右大臣(中央)「名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで 来るよしもがな」、清少納言(右)「夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」。
また、『枕草子』の第51段では「関は逢坂の関、須磨の関、鈴鹿の関…」などと書かれています。この後、もう一度京阪電車に乗って石山寺と三井寺に向かいました。
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コメント
栄えていた頃の逢坂関を見てみたいですよね。
いろんなドラマがありそうな気がします。
投稿: munixyu | 2024年5月25日 (土) 18:53
こんばんは。ゆーしょーです。
昨日は狸谷、今日は蝉丸!
色んな生き物が出てきますね。
最後の電車は京阪特急?
チョコレート色から変わったのかな?
格好良くプラットホームへ
入ってきましたね。
ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2024年5月26日 (日) 00:25
追伸です。
勘違いしていました。
チョコレート色の電車は阪急電車でした。
投稿: ゆーしょー | 2024年5月26日 (日) 00:32
★munixyuさん こんばんは♪
関東と関西をつなく峠道ですから、多くの歴史上の人物も通っているはずですね。現在でも国道1号線の要所になっています。
投稿: りせ | 2024年5月28日 (火) 03:19
★ゆーしょーさん こんばんは♪
最近の京阪は車両の色が変わって、久しぶりに乗り込むときにはよく確認しなければなりません。
投稿: りせ | 2024年5月28日 (火) 03:23