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2024年5月 7日 (火)

阿弥陀寺と本能寺の変

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日の記事の十念寺の北に阿弥陀寺があります。阿弥陀寺」は山号を蓮台山という浄土宗の寺院で百万遍知恩寺の末寺。京都四十八願寺巡拝の十六番札所でもあります。山門の左の「織田信長公本廟」という石碑の訳は後ほど。

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阿弥陀寺は室町時代末の天文24年(1555) 清玉(せいぎょく)上人が近江坂本に開創したのが始まりとされます。その後織田信長の帰依を得て、上京今出川大宮に移転しました。そのため院号を信長の法名からとった捴見院といいます。

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蓮台野に近いため山号は蓮台山、当時は広大な境内を有していたそうです (山門を入って左に鎮守社があります。)

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天正13年(1585)に豊臣秀吉の京都改造によって現在地に移転しました。(山門の右に鐘楼があり、梵鐘に穴が三つくりぬかれています。戦時中に供出され、溶かされる前の検査のためだとされます。)

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阿弥陀寺は江戸時代の延宝の大火(1675年)や天明の大火(1788年)により焼失しましたが、再建されて現在に至ります。向うは本堂。

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本堂には本尊の阿弥陀如来像とともに、織田信長、信忠父子の木像が安置されています。信長父子の像が安置されているのは、阿弥陀寺が本能寺の変とかかわりがあるからです。

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天正10年(1582)6月2日本能寺で明智光秀に奇襲された信長は、首を敵に渡すこ とを恐れて自害します。二条新御所にいた信忠も明智軍に襲撃されて自害しました。

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事件を聞きつけた清玉上人が塔頭の僧都20人余りを連れて急いで本能寺に行くと、薮の中で武士たちが信長の遺骸を火葬していました。遺体を敵に渡さないようにとの遺言を守り、その後に自害するつもりだといいます。

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塔頭の「帰白院」 いつも掲示板に詩歌や標語が掲げてあります。「ひじきは荒波にもまれ丸みのある姿になる」

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武士たちの話を聞いて上人は「火葬は出家の役で、ここで火葬したあと、遺骨を寺に持ち返り葬礼法事を行なうのでお任せくださ い」といいました。(本坊の前のヒオウギ)

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兵たちに明智軍に立ち向かうよう促し、その間に信長を火葬して焼骨を取り集めます。その後、光秀の兵たちに怪しまれな いように、本能寺の僧が立ち退くのにまぎれて阿弥陀寺に帰り、ひとまず遺骨を隠しました。

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後に寺院の僧たちだけで密かに葬儀を行ない、墓を築いて納骨しました。光秀は信長の遺骸を兵たちに捜させますが、ついに発見できませんでした。

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信長の遺骸が見つからなかったことが、豊臣秀吉が信長の死を隠して有力大名を集めることができ、光秀の天下が短命に終わった原因の一つといわれています。

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「芭蕉の句碑」、「春立つや 新年古き 米五升」、芭蕉没後百年に時宗僧侶で俳人の蝶夢(ちょうむ)が建立。蝶夢は塔頭・帰白院の住職を務めましたが、辞して蕉風俳諧の復興に尽力しました。

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清玉上人らは本能寺で討ち死にした112人の死骸も引き取り、阿弥陀寺の墓所に葬りました。

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6月13日山崎の合戦で光秀を討ち破った秀吉は、信長ゆかりの阿弥陀寺に対し葬儀を行なうことを告げます。しかし上人は、すでに葬儀は済んだとして、秀吉の申し出を辞退しました。

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さらに、秀吉は法要料ならびに御位牌前仏料として300石の御朱印を差し出しましたが、同じように辞退したそうです

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そのため秀吉は大変立腹し、柴野にある臨済宗大徳寺境内で法事をすることになり、天下人となってからは寺町通への移転に際して阿弥陀寺の寺領を大幅に縮小したそうです。

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明治時代になり、日本が外国に侵略されなかったのは天下統一の礎(いしづえ)を築いた織田信長のおかげ」として。明治天皇の命で建勲神社が創建されました。 (右が信長、左が嫡男・信忠の墓標。)

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大正6年には信長に正一位を追贈するために宮内庁が調査を行い、阿弥陀寺が本廟であることが確認されたといわれています。(左に森蘭丸・坊丸ら家臣の墓が並んでいます。)

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上述の本能寺の変に関する話は『改定史籍集覧』のなかの阿弥陀寺の寺伝を収録した「信長公阿弥陀寺由緒之記録」に記されています。ただし、寺伝を伝える文書が焼失して歴史的価値が低いとされてきました。(少し離れたところにある清玉上人の墓)

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しかし、発掘調査で判明した当時の本能寺の状況や、近年の研究で信長と清玉上人が兄弟同然の幼馴染であったことが分かり、多くの歴史学者は阿弥陀寺が信長の墓所であると考えています。(最近、墓地が整理されたようです。)

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阿弥陀寺では、本能寺の変が起こった6月2日に「信長忌」が営まれます。10時からの法要では僧侶による読経があり、参拝者らは焼香をして信長を追悼します。

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午後からは、通常非公開の本堂が開放され織田父子の木像や本能寺で信長が用いた槍などが公開され、毎年多くの歴史ファンが訪れるそうです。

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コメント

信長の遺骸が見つからなかったこと。そうですよね、
これがもし、その当時見つかっていたら、秀吉もどうだったかわかりません。
いろんな合戦があって、天下人も違ってたでしょう。
前田利家や、山内一豊、柴田勝家、徳川家康なんかが掴んでいたのかも。

投稿: munixyu | 2024年5月 7日 (火) 15:47

こんばんは。ゆーしょーです。
本能寺の変が起こったのは6月2日だったのですね。
知らなかったです。 ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2024年5月 8日 (水) 00:02

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